ソードアート・オンライン 外伝 5 圏内事件 九里史生  いったい何なんだ、この女は。  そりゃ確かに、いい天気なんだから昼寝でもしろと言ったのは俺だし、その実例を示すべく再び芝生に転がったのも俺なら、ついうっかりそのまま寝てしまったのも俺なのだが。  まさか、三十分ほどうたた寝してからハッと目を醒ましてみれば、本当に隣でグースカ熟睡しているとは予想外にもほどがある。豪胆なのか意地っ張りなのか、あるいは——ただの寝不足の人か。  何なんだホント。という呆れ感を最大限に表すべく首を左右に振りながら、俺はすーぴー寝息を立てる細剣使いの女——ギルド『血盟騎士団』サブリーダー、『閃光』アスナの整った横顔を眺め続けた。  話のそもそもは、あまりにいい天気なのでジメついた迷宮区にもぐる気をなくした俺が、今日は一日、主街区転移門を取り囲むなだらかな丘でチョウチョを数えると決めた事だった。  実際素晴らしい天気だった。仮想浮遊城アインクラッドの四季は現実と同期しているが、その再現度はやや生真面目すぎて、夏は毎日きっちり暑いし冬はばっちり寒い。気温のほかにも、雨や風、湿り気やホコリっぽさ、更には小虫の群れといった気候パラメータが山ほど存在し、たいがいはどれかが好条件なら他のどれかが悪い。  だが今日は違ったのだ。気温はぽかぽか暖かく、柔らかな日差しが空気を満たし、そよ風はベタついてもイガラっぽくもなく、おかしな虫も発生していない。いくら春とは言え、これほど全ての気候パラメータが好条件に固定されることは、年間通して五日もあるまい。  これはデジタルの神様が、今日くらいは攻略の疲れを癒すため昼寝でもしていろと言っているのだなと解釈し、素直に従った——のだが。  柔らかな芝の斜面に寝転がり、うとうとまどろんでいた俺の頭のすぐ横を、ざしっと白革のブーツが踏んだ。同時に、聞き覚えのあるキツイ声が降ってきた。曰く。  ——攻略組の皆が必死に迷宮区に挑んでいるときに、何をノンビリ昼寝なのか。  瞼をほぼ閉じたまま、俺は答えた。曰く。  ——本日の気候は年間通して最良なり。之を堪能せずして如何せん。  キツイ声尚も反駁して曰く、  ——天候など毎日一緒なり。  俺再び答えるに曰く、  ——汝隣に臥すれば自ずと悟るべし。  もちろん実際の問答は口語で行われたのだが、ともかくその結果、この女は何を考えたか本当に隣に寝転がり、こともあろうに本当に熟睡してしまったというわけだ。  さて。  時刻はまだ正午前で、芝生にぴったりと並ぶ俺と『閃光』に、転移門広場に行き交うプレイヤー達が遠慮のない視線を照射していく。ある者は驚愕に目を剥き、ある者はくすくす笑い、中には記録結晶のフラッシュを浴びせる不埒モノまでいる。  しかしそれも当然と言えよう。KoBサブリーダーのアスナと言えば、泣く子も黙る攻略の鬼、前線を怒涛のハイペースで押し上げるターボエンジンであり、またソロプレイヤーのキリトと言えば——やや不本意ではあるが——一部の不真面目者とツルんで頭の悪い遊びばかりしている攻略組きっての不良生徒である。  その組み合わせが並んで昼寝していれば片方の当人たる俺だって笑う。と言って、起こしてまた怒られてもソンだし、これはもう放って帰っちゃう一手だろう。  と思いたいのはヤマヤマだが、実際にはそれはできない。  なぜなら、『閃光』がこのまま熟睡し続けた場合、各種ハラスメント行為の対象になりかねないだけでなく——最悪、PKされてしまう可能性すらゼロではないからだ。  確かに、今いるここ、第五十九層主街区の中央広場は『圏内』である。  正確には『アンチクリミナルコード有効圏内』。  この内部では、プレイヤーは他のプレイヤーを絶対に傷つけることはできない。剣で切りつけても紫色のシステムエフェクトが光るだけでHPバーは一ミリも減らないし、各種の毒アイテムも一切機能しない。無論、アイテムを盗むなど論外だ。  つまり、圏内では、アンチクリミナルの名のとおり一切の直接的犯罪行為はおこなえない。これはSAOというデスゲームにあって、『HPがゼロになれば死ぬ』のと同じくらい絶対のルールなのだ。  だが、残念ながら、こちらには抜け道が残されている。  それがつまり、プレイヤーが熟睡しているケースだ。長時間の戦闘で消耗したりして、ほとんど失神に近いレベルで深く眠っているプレイヤーは、少しの刺激では目覚めない場合もある。  そこを狙って、『完全決着モード』のデュエルを申し込み、寝ている相手の腕を勝手に動かしてOKボタンをクリックさせる。あとは文字通り寝首を掻くだけだ。  あるいは更に大胆に、相手の体を圏外まで運び出してしまうという手もある。直立し足を踏ん張っているプレイヤーは『コード』で保護され強引に動かすことはできないが、『担架』アイテムに乗せれば移動は自由自在だ。  このどちらのケースも、過去に実際に行われた。『レッド』共の腐った情熱は留まるところを知らない。その悲劇を教訓に、今ではあらゆるプレイヤーは必ず、施錠できるホームか宿屋の部屋で寝るようになっている。俺でさえ、芝生に寝転ぶ前に『索敵スキル』による接近警報をセットしたし、それ以前に熟睡はしなかった。  のだが。  今現在、隣で爆睡する『閃光』は、どう見てもγ波が出まくっている。たとえメーキャップアイテムで顔にラクガキしても起きるまい。まったく、豪胆なのか意地っ張りなのか、それとも—— 「疲れてる……んだろうな」  俺は小さく呟いた。  SAOでは仕様上、レベルアップだけが目的ならソロがいちばん効率がいい。なのにこの女は、ギルドメンバーのレベリングの面倒をキッチリ見つつも、自身も俺に迫るくらいの強化ペースを維持している。おそらく、睡眠時間を削って深夜も狩りをしているのだろう。  その辛さは、俺にも覚えがある。同じようにハードな経験値稼ぎに没頭していた四、五ヶ月前は、俺も一度眠ったら死んだように数時間は絶対起きなかったものだ。  ため息を飲み込み、俺は長期戦に備えてストレージから飲み物を取り出すと、芝生に座りなおした。  寝ろと言ったのは俺だ。なら、起きるまで付き合う責任もあるだろう。  外周の開口部からオレンジ色の夕陽が顔を出す頃になって、『閃光』アスナは小さなくしゃみとともにようやく目を醒ました。  なんとたっぷり八時間も爆睡していた計算だ。最早昼寝どころの騒ぎではない。ヒルメシ抜きで付き合わされた俺は、せめて冷徹なる副団長様が、この状況を認識したあとどんなオモシロ顔を見せてくれるかだけを楽しみにひたすら凝視し続けた。 「……うにゅ……」  アスナは謎の言語で呟いたあと、数回瞬きし、俺を見上げた。  かたちの良い眉が、わずかにひそめられる。芝生に右手をついてふらふらと上体を起こし、栗色の髪を揺らして右、左、さらに右を眺める。  最後にもう一度、あぐらをかいて座る俺を見て——。  透明感のある白い肌を、瞬時に赤く染め(おそらく羞恥)、やや青ざめさせ(おそらく苦慮)、最後にもう一度赤くした(おそらく激怒)。 「な……アン……どう…………」  再び謎言語を放つ『閃光』に、俺は最大級の笑顔とともに言った。 「おはよう。よく眠れた?」  白革の手袋に包まれた右手が、ぴくりと震えた。  しかし、さすがは最強ギルドのサブリーダーと言うべきか、アスナはそこで自制心のチェックロールに成功したらしく、レイピアを抜くことも(どうせ圏内ではあるが)、あるいはダッシュで逃走することもなかった。  ぎりぎりと食い縛られた口元から、短いひと言が押し出された。 「…………ゴハン一回」 「は?」 「ゴハン、何でも幾らでも一回おごる。それでチャラ。どう」  この女の、こういう直截さは嫌いではない。寝起きの頭で瞬時に、なぜ俺が長時間付き合ったのかを理解したのだ。圏内PK行為からガードするためだけではなく、日ごろの精神疲労を回復させるため、寝られるだけ寝かせてやろうと考えたところまで。  俺は片頬で——今度は本心から——ニヤっと笑い、OK、と答えた。  ついでに、じゃあ君の部屋で手料理を、とワルノリしたくなるがそこはこちらも自制する。伸ばした両脚を振り上げ、反動でくるっと立ち上がった俺は、右手を差し出しながら言った。 「五十七層の主街区に、NPC料理にしてはイケる店があるから、そこ行こうぜ」 「……いいわ」  素っ気ない顔で俺の手につかまり立ち上がったアスナは、ふいっと俺から顔を逸らし、まるで夕焼けを胸に吸い込もうとするかのように大きく伸びをした。  第五十七層主街区『マーテン』は、現在の最前線からわずか二フロア下にある大規模な街で、必然的に攻略組のベースキャンプかつ人気観光地となっている。  さらに夕刻ともなれば、前線から帰ってきたり、あるいは下層から晩飯を食べにきたプレイヤーたちで大いに賑わうこととなる。  俺とアスナは、ごったがえすメインストリートを、肩を並べて歩いた。すれ違う連中のうち、少なからぬ数がギョッと眼を剥くのがなんとも楽しい。アスナとしては、敏捷力パラメータ全開のダッシュで目的の店に飛び込みたいところだろうが、残念ながら——もしくは幸い、行き先は俺しか知らない。  まず間違いなく、SAO最後の日までもう二度とこんな真似は出来ないだろうなあという感慨を噛み締めつつ十分ほども歩いたところで、道の右側にやや大きめのレストランが現れた。 「ここ?」  ほっとしたような、胡散臭そうな顔で店を見るアスナに、俺は頷いた。 「そ。お薦めは肉より魚」  スイングドアを押し開け、ホールドすると、細剣使いはすました顔で入り口を潜った。  NPCウェイトレスの声に迎えられ、そこそこ混み合う店内を移動する間も、幾つもの視線が集中するのを俺は感じた。そろそろ、愉快というより気後れのほうが大きくなってくる。これほど注目されるというのも、実際のところ楽ではあるまい。  だがアスナは、堂々たる歩調でフロアの中央を横切り、奥まった窓際のテーブルを目指した。俺がぎこちなく引いた椅子に、滑らかな動作で腰を下ろす。  なんだか、オゴってもらうはずがエスコートさせられているような気になりつつも、俺も向かいに座った。せめて遠慮なくご馳走になるべく、食前酒から前菜、メイン、デザートまでがっつり注文し、ふう、と一息いれる。  速攻届いた華奢なグラスに唇をつけてから、アスナも同じように、ほうっと長く息をついた。  わずかに険の抜けたライトブラウンの瞳で俺を見て、可聴域ぎりぎりのボリュームで囁く。 「ま……なんていうか、今日は……ありがと」 「へ!?」  驚愕した俺をじろっと見て、もう一度。 「ありがとう、って言ったの。ガードしてくれて」 「あ……いや、まあ、その、ど、どういたしまして」  日ごろ、攻略組の会議で丁々発止やりあってばかりいるので、不覚にも軽く噛んでしまう。すると、小さくくすっと笑って、アスナは背中を椅子に預けた。 「なんか……あんなにたっぷり寝たの、ここに来て初めてかもしれない」 「そ……そりゃ幾らなんでも大げさじゃないのか」 「んーん、ホント。普段は、長くても三時間くらいで目が醒めちゃうから」  甘酸っぱい液体で口を湿らせ、俺は尋ねた。 「それは、アラームで起きてるんじゃなくて?」 「うん。不眠症って程じゃないけど……怖い夢見て飛び起きたりしちゃうのよ」 「……そっか」  不意に、胸の奥に鋭い痛みが生じる。かつて、同じことを言った人の顔がちらりと脳裏を過ぎる。 『閃光』もまた、生身のプレイヤーなのだ。そんな当たり前のことに今更気付かされ、俺は言うべき言葉を探した。 「えー……あーっと……なんだ、その、また外でヒルネしたくなったら言えよ」  我ながら間抜けな台詞だったが、それでもアスナはもう一度微笑むと、頷いた。 「そうね。また同じくらい最高の天候設定の日がきたら、お願いするわ」  その笑顔に、俺はもう一つ、この女がちょっと有り得ないほどに美人なのだということにも気付かされ、不覚にも絶句した。  幸い、発生しかけた微妙な空気を、サラダの皿を持ってきたNPCが回避させてくれた。さっそく、色とりどりの謎野菜に卓上の謎スパイスをぶっかけ、フォークで頬張る。  ばりばりごくんと飲み込んでから、俺はアレコレを誤魔化すべくぼやいた。 「考えてみれば、栄養とか関係ないのに、なんで生野菜なんか食べてるんだろうな」 「えー、美味しいじゃない」  レタスっぽい何かを上品に咀嚼してから、アスナが反論する。 「まずいとは言わんけどさあ……せめて、マヨネーズくらいあればなあー」 「あー、思う。それは思う」 「あとソースとか……ケチャップとかさ……それに……」 「「醤油!」」  二人同時に叫び、同時にぷっと吹き出した——  その瞬間だった。  どこか遠くから、紛れもない恐怖の悲鳴が聞こえた。 「……きゃあああああ!!」  ————!?  息を飲み、腰を浮かせ、背の剣に手を伸ばす。  同じように、レイピアの柄に右手を添えたアスナが、打って変わって鋭い声で囁いた。 「店の外だわ!」  直後、椅子を蹴立てて出口へと走り出していく。俺も慌てて白い騎士服の背中を追う。  表通りに出ると同時に、再び絹を裂くような悲鳴が耳に届いた。  恐らく、建物を一ブロック隔てた広場からだ。アスナはちらりと俺を見ると、今度こそ掛け値なしの全力ダッシュで南へ走り出した。  白い稲妻のごとき疾駆に必死に追随し、ブーツの底から火花を散らしながら角を東へ曲がって、すぐ先の円形広場へと飛び込む。  そしてそこで、俺は、信じられないものを目にした。  広場の北側には、教会らしき石造りの建物がそびえている。  その二階中央の飾り窓から一本のロープが垂れ、環になったその先端に——男が一人、ぶら下がっていた。  NPCではない。分厚いフルプレート・アーマーに全身を包み、大型のヘルメットを被っている。ロープは鎧の首元にがっちり食い込んでいるが、広場に密集するプレイヤーたちを恐怖に喘がせているのはそれではない。この世界ではロープアイテムによる窒息で死ぬことはない。  恐怖の源は、男の胸を深々と貫く、一本の黒い長槍だ。  男は、槍の柄を両手で掴み、口をぱくぱく動かしている。その間にも、胸の傷口からは、赤いエフェクト光がまるで噴き出る血液のように明滅を繰り返す。  それはつまり、この瞬間も、男のHPに連続的ダメージが生じているということだ。一部のピアース系武器にのみ設定されている特性、『貫通継続ダメージ』だ。  どうやら黒い長槍は、それに特化した武器のようだった。柄の途中に無数の逆棘が生えているのが見て取れる。  俺は一瞬の驚愕から覚めると同時に、叫んだ。 「早く抜け!!」  男がちらりと俺を見た。両手がのろのろと動き、槍を抜こうとするが、食い込んだ武器は容易に動こうとしない。死の恐怖で、手に力が入らないのだ。  壁面にぶら下がる男の体は、地面から最低でも十メートルは離れている。今の俺のステータスでは、とてもジャンプして届く距離ではない。  ならばスローイングピックでロープを切るか。しかしもし狙いが逸れ、男に当たったら。それで残りHPがゼロになったら。  普通に考えれば、この場所は『圏内』なのだから、そんなことは起こり得ない。だがそれを言ったら、あの槍によるダメージ発生そのものが有り得ない話なのだ。  逡巡する俺の耳に、アスナの低く鋭い叫びが届いた。 「君は下で受け止めて!」  直後、物凄いスピードで教会の入り口めざし駆け出していく。内部の階段で二階まで登り、あのロープを切る気だ。 「わかった!」  アスナの背中にそう叫び返し、俺はぶらさがる男の真下へとダッシュした。  ——しかし。  半分ほど走ったところで、ヘルメットの下にのぞく男の両眼が、空中の一点を零れ落ちんばかりに凝視した。何を見ているのか、俺は直感的に察した。  自分のHPバーだ。  正確には、それがゼロになる瞬間だ。  広場に満ちる悲鳴と驚声のなか、男が何かを叫んだような気がした。  そして。  無数のグラスが砕け散るような音とともに、青い閃光が夜闇を染めた。  爆散するポリゴンの雲を、俺は呆けたようにただ見上げた。  拘束すべき物を失ったロープが、くたりと壁面にぶつかった。一秒後、落下してきた黒いスピア——あるいは凶器が、目の前の石畳に、重い金属音を響かせて突き立った。    † 2 †  無数のプレイヤーが放つ悲鳴が、街区に満ちる平和なBGMをかき消した。  俺は巨大な衝撃を覚えながらも、懸命に目を見開き、教会を中心とした広い空間にひたすら視線を走らせた。存在すべきもの——かならず出現しなければならないものを探すために。  すなわち、『デュエル勝利者宣言メッセージ』。  ここは主街区の、つまりアンチクリミナルコード有効圏内のど真ん中だ。この場所でプレイヤーがHPにダメージを受け、なおかつ死にまで至るからには、その理由は一つしかない。  完全決着モードのデュエルを承諾し、それに敗北すること。  それ以外には有り得ない。絶対に。  ならば、男が死ぬと同時に、『WINNER 誰それ 試合時間 何秒』という形式の巨大なシステムウインドウが近くに出現するはずなのだ。それを見れば、あのフルプレ男を槍一本で殺した相手が誰なのか即時に解る。  ——のだが。 「……どこだ……」  我知らず呟く。  システム窓が出ない。広場のどこにも見あたらない。表示されている時間はたった三十秒しかないのに。 「みんな! デュエルのウィナー表示を探せ!!」  俺は周囲のざわめきを圧する大声でそう叫んだ。プレイヤーたちは即座に俺の意図を悟ったらしく、すぐさま視線を四方八方に走らせはじめた。  だが、発見の声は無い。もう十五秒は経つ。  ならば建物の内部か。ロープが垂れ下がっている教会の二階の部屋にメッセージが出ているのか。そうならアスナが見ているはずだ。  と思った瞬間、問題の窓から『閃光』の白い騎士服がのぞいた。 「アスナ!! ウィナー表示あったか!?」  日ごろは呼び捨てなど恐ろしくてとても出来ないが、さんを付ける時間も惜しんで俺は叫びかけた。  しかし服装と同じくらい蒼白の顔が、素早く左右に振られた。 「無いわ! システム窓もないし、中には誰もいない!!」 「……なんでだ……」  呻き、俺はさらに空しく周囲を見回した。  数秒後、誰かの呟きが小さく聞こえた。 「……ダメだ、三十秒経った…………」  教会の一階に常駐するNPCシスターの横をすり抜け、俺は建物の奥にある階段を駆け上った。  二階は、宿屋の個室に似た四つの小部屋に分かれているが、宿と違ってドアロックはできない。通り過ぎた三部屋には、目視でも索敵スキルによる探知でも潜んでいるプレイヤーは見つけられなかった。  唇を噛み、俺は四つ目の、問題の小部屋に足を踏み入れた。  窓際で振り向いたアスナは、気丈な表情を保ってはいたが、やはり内心ではショックを受けているようだった。俺のほうも、眉間のあたりが強張るのを隠すことはできない。 「教会の中には、他には誰もいない」  報告すると、KoBサブリーダーは即座に問い返してきた。 「隠蔽アビリティつきのマントで隠れてる可能性は?」 「俺の索敵スキルを無効化するほどのアイテムは、最前線でもドロップしてないよ。それに念のため、入り口に隙間なく立ってもらってる。この建物には裏口も無いし、窓がある部屋はここだけだ」 「ん……わかった。これを見て」  アスナは頷くと、白いグローブの指で部屋の一画を示した。  そこには、簡素な木製のテーブルが置かれていた。動かせない、いわゆる『固定アイテム』だ。  その脚の一本に、やや細い頑丈そうなロープが結わえられている。結わえる、と言っても実際に手で結ぶわけではない。ロープのポップアップ窓を出し、結束ボタンを押して、さらに対象をクリックすることで自動的に固定される仕組みだ。いちど結べば、ロープのデュラビリティを超える荷重をかけるまでは切れたり解けたりすることはない。  黒光りするロープは、空間を二メートルほど横切って、南側の窓から外に垂れている。  ここからは見えないが、先端で環をつくってあって、そこにあのフルプレ男が首吊りになっていた、というわけだ。 「うーん…………」  俺は唸りながら首を捻った。 「どういうことだ、こりゃ」 「普通に考えれば……」  アスナが同じく小首を傾げて答えた。 「あのプレイヤーのデュエルの相手がこのロープを結んで、胸に槍を突き刺したうえで、首に環を引っ掛けて窓から突き落とした……ことになるのかしら……」 「見せしめのつもりか……? いや、でもそれ以前に」  大きく息を吸い込み、俺は明瞭な声で告げた。 「ウィナー表示がどこにも出なかった。広場に詰め掛けてた百人近くが誰も見なかったんだぜ。デュエルなら、かならず出現するはずだろう」 「でも……有り得ないわ!」  鋭い反駁。 「『圏内』でHPにダメージを与えるには、デュエルを申し込んで、承諾されるしかない。それは君だって知ってるでしょう!」 「……ああ、それは、その通りだ」  俺たちは、しばし同時に沈黙した。  窓の外の広場からは、尚もプレイヤーたちのざわめきが途切れることなく届いてくる。彼らもまた、この『事件』の異質さに気付いているのだ。  やがて、アスナがまっすぐ俺を見て、言った。 「このまま放置はできないわ。もし、『圏内PK技』みたいなものを誰かが発見したのだとすれば、早くその仕組みを突き止めて対抗手段を公表しないと大変なことになる」 「……俺とあんたの間じゃ珍しいけど、今回ばかりは無条件で同意する」  頷いた俺に、僅かな苦笑を滲ませて、『閃光』はずいっと右手を突き出してきた。 「なら、解決までちゃんと協力してもらうわよ。言っとくけど、昼寝の時間はありませんから」 「してたのはそっちじゃないか……」  ぼそりと呟きつつも、俺も手を差し出し、白と黒の手袋ごしにぎゅっと握手を交わした。 『証拠物件』のロープを回収し、俺とアスナは小部屋を出ると、教会の出入り口へと戻った。同じく証拠品である黒い槍は、移動する前にすでにアイテムストレージへ格納してある。  立ち番を頼んだ顔見知りのプレイヤー二人に、礼を言ってから尋ねたが、やはり通過した者は一人もいないようだった。  広場に出た俺は、こちらを注視している野次馬たちに手を挙げてから、大きな声で呼びかけた。 「すまない、さっきの一件を最初から見てた人、いたら話を聞かせてほしい!」  数秒後、おずおずという感じで、人垣から一人の女性プレイヤーが進み出てきた。こちらは顔に見覚えはない。武装もNPCメイドのノーマルな片手剣で、おそらく中層からの観光組だろう。  心外にも、俺を見てやや怯えたような顔をする女の子に、代わってアスナが優しい口調で問いかけた。 「ごめんね、怖い思いしたばっかりなのに。あなた、お名前は?」 「あ……あの、私、ヨルコっていいます」  そのか細い震え声に、俺は確かな聞き覚えがあった。思わず口を挟む。 「もしかして、さっきの悲鳴も、君が?」 「は……、はい」  ゆるくウェーブする濃紺色の髪を揺らして、ヨルコという女性プレイヤーは頷いた。年齢は十七、八だろうか。  髪と同じくダークブルーの、やや垂れぎみの眼に、不意に薄い涙が浮かんだ。 「私……、私、さっき……殺された人と、友達だったんです。今日は、一緒にゴハン食べにきて、でもこの広場ではぐれちゃって……それで……そしたら…………」  それ以上は言葉にならないというように、両手で口元を覆う。  震える細い肩を、アスナがそっと押し、教会の内部へと導いた。何列も並ぶ長いすのひとつに腰を下ろさせ、自分も隣に座る。  俺はやや離れたところに立ち、じっと女の子が落ち着くのを待った。友人が惨いやり口でPKされる一部始終を見たというなら、そのショックは計り知れないものがあるだろう。  アスナが背中をさすっていると、やがてヨルコは泣き止み、消え入りそうな声ですみません、と言った。 「ううん、いいの。いつまでも待つから、落ち着いたら、ゆっくり話して、ね?」 「はい……、も……もう大丈夫、ですから」  案外と気丈でもあるのか、ヨルコはアスナの手から身体を起こし、こくりと頷いた。 「あの人……、名前はカインズっていいます。昔、同じギルドにいたことがあって……今でも、たまにPT組んだり、食事したりしてたんですけど……それで今日も、この街まで晩ご飯食べにきて……」  ぎゅっと一度眼をつぶってから、震えの残る声で続ける。 「……でも、あんまり人が多くて、広場で見失っちゃって……周りを見回してたら、いきなり、この教会の……窓から、人が、カインズが落ちてきて、宙吊りに……しかも、胸に、ヤリが……」 「その時、誰かを見なかった?」  アスナの問いに、ヨルコは一瞬黙り込んだ。  そして、ゆっくりと、しかし確かに首肯した。 「はい……一瞬、なんですが、カインズの後ろに、誰か立ってたような気が……しました……」  俺は無意識のうちに両の拳をぎゅっと握った。  やはり、犯人はあの部屋にいたのか。とすれば、被害者——カインズを窓から突き落としてから、衆人環視のなかゆうゆうと脱出してのけたということになる。  そうなるとやはりハイディング機能つき装備を使ったはずだが、あの手のアイテムは、移動中は効果が薄くなる。そのデメリットを補正するほどのハイレベルな隠蔽スキルを持っているということか。  脳裏に、『アサシン』などという不穏な単語がちらりと過ぎる。  まさか、このSAOに、俺やアスナですら知らない武器スキル系統が存在したのだろうか?  そのスキル特性に、アンチクリミナルコードを無効化するようなものがあったとすれば……?  同じことを考えたのか、アスナが一瞬背中を震わせ、ぎゅっと自分の腕を掴んだ。    † 3 †  一人で下層まで帰るのが怖いと言うヨルコを、最寄の宿屋まで送り届けてから、俺とアスナはとりあえず転移門広場まで戻った。  事件から三十分ほどが経過し、さすがにもう人の数は減りつつあった。それでも、俺たちの報告を聞くために二十人近い、主に攻略組のプレイヤーたちが待機していた。  彼らに俺は、死んだプレイヤーの名前がカインズであること、殺害の手口は今のところまったく不明であることを伝えた。そして、ことによると、未知の圏内PK手段が存在するかもしれないという危惧も。 「……そんな訳だから、当面は街中でも気をつけたほうがいいと、出来る限り広範囲に警告してくれるか」  俺がそう締めくくると、皆一様に真剣な表情で頷いた。 「分かった。情報屋のペーパーにも載せてくれるよう頼んどく」  大手ギルドに所属するプレイヤーが代表してそう応じたのを潮に、その場は解散となった。  俺は視界隅の時刻表示をちらりと確認した。まだ夜七時過ぎで、少し驚く。 「さて……、次はどうする」  隣のアスナに訊くと、僅かな間もおかずに即答が来た。 「手持ちの情報を検証しましょう。とくに、ロープとスピアを。出所が分かれば、そこから犯人を追えるかもしれない」 「となると、鑑定スキルが要るなぁ。お前、上げて……るわけないよな」 「当然、君もね。……ていうか……」  そこではじめてアスナは表情を動かし、じろっと俺を見た。 「その『お前』ってのやめてくれない?」 「へ? ……あ、ああ……じゃあ、えーと……『貴女』? 『副団長』? ……『閃光様』?」  最後のは、この女のファンクラブが発行する会誌で用いられている呼称だ。効果覿面、レーザーのごとき視線で俺を焼灼してから、アスナはぷいっと顔を背けて言った。 「ふつうに『アスナ』でいいわよ。さっきそう呼んでたでしょ」 「りょ、了解」  震え上がった俺は素直に頷き、慌てて話題を戻した。 「で、鑑定スキルだけど……フレンドとかにアテは……?」 「んー」  一瞬考え込んでから、すぐ首を振る。 「武器屋やってる子が持ってるけど、今は一番忙しい時間だし、すぐには頼めないかなあ……」  確かに今頃は、一日の冒険を終えたプレイヤーが装備のメンテや新調に殺到する時間帯だ。 「そっか。じゃあ、熟練度がイマイチ不安だけど俺の知り合いの雑貨屋戦士に頼もう」 「それって……あのでっかい人? エギルさん……だっけ?」  さっそく窓を広げ、メッセージをだかだか打ち始めた俺に、アスナが口を挟んだ。 「でも、雑貨屋さんだってこの時間は忙しいでしょう」 「知らん」  と答え、俺は容赦なく送信ボタンを押した。  第五十層主街区『アルゲード』は、転移門から出た俺とアスナを、相変わらずの猥雑な喧騒で出迎えた。  まだアクティベートされてからそれほど経っていないというのに、すでに目抜き通りの商店街には無数のプレイヤーショップが開店し、軒を連ねている。その理由は、店舗物件の代金が下層の街と比べても驚くほど安く設定されていたからだ。  当然、それに比例して店は狭く外観もキタナイが、このアジア的——あるいは某電気街的混沌が好きだというプレイヤーも多い。俺もその一人で、近々ここに引っ越してくる予定を立てている。  エキゾチックなBGMと呼び込みの掛け声に、屋台から流れ出す安っぽい食い物のにおいがミックスされた空気のなかを、俺はアスナを先導して足早に歩いた。白い騎士服のミニスカートから惜しげもなく生脚をさらした細剣使いの姿は、この街では少々目立ちすぎる。 「おい、急ごうぜ……って」  ナナメ後方のヒールの音が遠ざかったのを意識して振り向いた俺は、眼をむいて喚いた。 「何買い食いなんかしてんだよ!」  怪しげな屋台で怪しげな串焼き肉をお買い求めになった『閃光』サマは、あぐりと一口かじってから、悪びれずにしれっと答えた。 「だって、さっきサラダつついただけで飛び出てきちゃったじゃない。……うん、これ、けっこうイケるよ」  もぐもぐ口を動かしながら、はい、と左手に握ったもう一本の串を俺に差し出してくる。 「へ? くれるの?」 「だって、今日は最初からそういう話だったでしょ」 「あ……ああ……」  反射的に頭を下げつつ受け取ってから、俺はようやく、オゴリフルコースがオゴリ串焼きになってしまったことを悟った。ちなみに、さっき入ったレストランの代金は、店から飛び出た時点で手をつけていたサラダの分だけが互いのアイテム欄から均等に引かれている。  エスニックな味付けの謎肉をがつがつ頬張りながら、俺は、いつか絶対この女に手料理を作らせてやるという決意とともに歩いた。  目指す雑貨屋に到着したのは、二本の串がきれいになるのとほぼ同時だった。音も無く消滅した串を握っていた手を開き、別に汚れてはいないがぱたぱたと叩いてから、俺はこちらに背を向けている店主に呼びかけた。 「うーっす。来たぞー」 「……客じゃない奴に『いらっしゃいませ』は言わん」  雑貨屋兼斧戦士のエギルは、その巨躯と異相に似合わないしょぼくれた声でそう唸り、狭い店内の客に呼びかけた。 「すまねえ、今日はこれで閉店だ」  えーっ、という不満の声に、逞しい体をぺこぺこ縮めて謝罪しつつ全員を追い出し、店舗の管理メニューから閉店操作を行う。  カオス極まる陳列棚が自動で収納され、ぎいばったんと表の鎧戸が閉まったところで、エギルはようやく振り向いた。 「あのなあキリトよう、商売人の渡世は、一に信用二に信用三四が無くて五に荒稼ぎ……」  怪しげな警句は、俺の隣に立つ人間を見た瞬間フェードアウトした。  禿頭の下回りを囲む髭をぷるぷる震わせて棒立ちになるエギルに、アスナは清楚な笑顔とともに頭を下げた。 「お久しぶりです、エギルさん。急なお願いをして申し訳ありません。どうしても、火急にお力を貸していただきたくて……」  魁偉な顔をひとたまりもなく崩し、エギルは即座に任せてくださいと胸を叩いて茶まで出した。  まったく男というのは、先天的パラメータに決して抵抗できない哀れな種族だ。  二階の部屋で事件のあらましを聞いたエギルは、さすがに事の重大さを察したようで、突き出た眉稜の下の両眼を鋭く細めた。 「……デュエルじゃない、というのは確かなのか」  太いバリトンで唸る巨漢に、揺り椅子に体を預けた俺はゆっくり頷いた。 「あの状況で、誰もウィナー表示を見ないということは考えにくいし、今はそう考えるべきだと思う。それに……デュエルだとしても、メシを食いにきた場所で申し込みを、増してや『完全決着モード』を受諾するなんて有り得ないよ」 「それに、直前まであの子……ヨルコさんと歩いてたなら、『睡眠PK』の線も無いしね」  小さな丸テーブルの上のマグカップを揺らしながら、アスナが補足する。 「第一、突発的デュエルにしては手が込み入りすぎてる。事前に計画されたPKなのは確実と思っていい。そこで……こいつだ」  俺はウインドウを開くと、アイテムストレージからまず問題のロープを実体化させ、エギルに手渡した。  テーブルの脚に結束されていたほうの先端は当然回収したときに解けているが、その反対側はまだ大きな環になったままだ。  エギルはその輪っかを目の前にぶらさげ、嫌そうな顔で鼻を鳴らすと、太い指でタップした。  開かれたポップアップウインドウから、『鑑定』メニューを選択する。スキルを持たない俺やアスナがそれをしても失敗表示が出るだけだが、商人クラスのエギルなら、ある程度の情報を引き出せるはずだ。  はたして巨漢は、彼だけに見えるウインドウの中身を、太い声で解説した。 「……残念ながら、プレイヤーメイドじゃなくNPCショップで売ってる汎用品だ。ランクもそう高くない。耐久度は半分近く減ってるな」  俺は、あの恐ろしい光景を脳裏に再生させながら頷いた。 「そうだろうな。あんだけ重装備のプレイヤーをぶら下げたんだ。物凄い加重だったはずだ……」  しかし殺人者にしてみれば、男のHPがゼロになり、爆散するまでの十数秒保てばじゅうぶんだったわけだ。 「まあ、ロープにはあんま期待してなかったさ。本命はこいつだ」  俺は開いたままのストレージをタップし、さらにアイテムを実体化させた。  黒く輝く短槍《ショートスピア》は、狭い部屋の中では、いっそう重々しい存在感を放って三人を沈黙させた。武器のランクで言えば、俺やアスナの主武装とは比較にならないほど下だが、そういう問題ではない。  この槍は、一人のプレイヤーの命を残酷な遣り口で奪った、本物の『凶器』なのだ。  俺はどこかにぶつけないよう、慎重に槍をエギルに手渡した。  このカテゴリの武器にしては珍しく、全体が同一素材の黒い金属で出来ている。長さは一・五メートル程か、手元に三十センチのグリップがあり、柄が続き、先端に二十センチの鋭い穂先が光る。  特徴は、柄の半分以上にびっしりと短い逆棘が生えていることだ。それによって、一度突き刺さったものを抜くときの要求筋力値を上げているのだ。  この場合の筋力値とは、プレイヤーに設定された数値パラメータと同時に、脳から出力されナーヴギアが延髄でインタラプトする信号の強度をも意味する。あの瞬間、死の恐怖に呑まれたフルプレ男——カインズは、仮想の体を動かすための明瞭な信号を生成することが出来なかった。両手で掴んだ槍を抜くことが出来なくても無理はない。  そう考えれば、やはりこれはただの突発的PKではないのではないか、という思いが改めて強くなる。それほどに、『貫通継続ダメージ』による死は残酷なものなのだ。相手の剣技でも、武器の威力でもなく——自分の怯えに殺されるのだから。  俺の一瞬の思考を、鑑定を終えたエギルの声が破った。    † 4 † 「PCメイドだ」  俺とアスナは、同時にがばっと身を乗り出した。 「本当か!」  思わず叫ぶ。  PCメイド、つまり『鍛冶スキル』を習得したプレイヤーによって作成された武器ならば、必ずそのプレイヤーの『銘』が記録される。そして、この槍はおそらく、特注仕様のワンオフ品だ。鍛えたプレイヤーに直接訊ねれば、発注購入したのが誰だか覚えている可能性が高い。 「誰ですか、作成者は?」  アスナの切迫した声に、エギルはシステムウインドウを見下ろしながら答えた。 「『グリムロック』……綴りは『Grimlock』。聞いたことねぇな。少なくとも、一線級の刀匠じゃねえ。まあ、自分用の武器を鍛えるためだけに鍛冶スキル上げてる奴も居ないわけじゃないが……」  商人クラスのエギルが知らない鍛冶屋を、俺やアスナが知ってるわけもなく、狭い部屋には再び短い沈黙が満ちた。  しかしすぐに、アスナが硬い声で言った。 「でも、探し出すことは出来るはずよ。このクラスの武器を作成できるレベルまで、まったくのソロプレイを続けてるとは思えない。中層の街で聞き込めば、『グリムロック』とパーティーを組んだことのある人がきっと見つかるわ」 「確かにな。こいつみたいなアホがそうそう居るとは思えん」  エギルが深く頷き、アスナと同時にアホソロプレイヤーの俺を見た。 「な……なんだよ。お、俺だってたまにはパーティーくらい組むぞ」 「ボス戦のときだけでしょ」  冷静に突っ込まれれば、反論できずに押し黙るしかない。  ふん、と鼻を鳴らし、アスナは改めてエギルの手中のショートスピアを見た。 「ま……正直、グリムロックさんを見つけても、あんまりお話したいカンジじゃないけどね……」  それには俺も同意見だった。  確かに、カインズを殺したのは、この槍をオーダーした未知のレッドプレイヤーであって、鍛冶屋グリムロックではない。  しかし、ある程度の技のある鍛冶プレイヤーなら、この武器が何のために設計されたものなのか推察できるはずなのだ。 『貫通継続ダメージ』は、基本的にモンスター相手には効果が薄い。なんとなれば、アルゴリズムによって動くMobは、恐怖を知らないからだ。貫通武器を突き刺されても、ブレイクポイントが発生し次第、むんずと掴んで容易く引っこ抜いてしまう。当然、その後親切に武器を返してくれるわけもなく、遠く離れた場所にポーイと捨てられたそれは戦闘が終わるまで回収できない。  ゆえに、この槍は対人使用を目的として作成されたものだということになる。俺の知っている鍛冶屋なら全員、仕様を告げられた時点で依頼を断るはずだ。  なのにグリムロックは槍を鍛えた。  よもや殺人者本人ということはあるまいが——鑑定すれば容易く名前が割れてしまうので——しかし、倫理観のかなり薄い人物か、あるいは秘かにレッドギルドに属しているということすら有り得る。 「……少なくとも、話を聞くのに、タダってわけにはいかないカンジだな」  俺がそう呟くと、エギルはぶんぶん首を振り、アスナはじろっと一瞥くれた。 「折半でいきましょ」 「……わかったよ、乗りかかった舟だ」  肩をすくめてから、がめつい商人に最後の質問をする。 「手がかりにはならないと思うけど、いちおう武器の名前も教えてくれ」  禿頭の巨漢は、わかりやすい安堵顔を作ると、三たびウインドウを見下ろした。 「えーっと……『ギルティソーン』となってるな。罪のイバラ、ってとこか」 「……ふーん」  改めて、俺はショートスピアの柄に密生する逆棘を眺めた。  勿論、武器の名前はシステムがランダムに命名したものだ。だから、その単語になんらかの意志が込められているわけではない。  ——しかし。 「罪の……茨」  囁くように呟いたアスナの声もまた、どこか寒々とした響きを帯びているように思えた。  俺とアスナ、そして助手のエギルは連れ立ってアルゲードの転移門から、まずは最下層『はじまりの街』へと移動した。  目的は、もちろん黒鉄宮に安置された『生命の碑』を確認することだ。鍛冶屋グリムロック氏を訪ね当てようにも、生きていてくれなければどうしようもない。  広大なはじまりの街は、春だというのに荒涼とした雰囲気に覆われていた。  お天気パラメータのせいだけではない。宵闇に包まれた幅広の街路にはプレイヤーの姿はほとんど無く、気のせいかNPC楽団が奏でるBGMも鬱々とした短調のメロディばかりだ。  ここ最近、最大ギルドにして自治組織でもある『アインクラッド解放軍』がプレイヤーの夜間外出を禁止したという冗談のような噂を耳にしていたが、これはどうやら本当なのかもしれない。出くわすのは、お揃いのガンメタとオリーブグリーンの装備を着込んだ『軍』の見回りだけなのだ。  しかもそいつらは、俺たちを見つけるたびに、中学生を補導するお巡りさんのごとき勢いで駆け寄ってくるので心臓に悪い。もっとも、先頭に立つアスナの絶対零度の視線を食らってたちまち退散していくのだが。 「……こりゃあ、アルゲードが賑わうわけだよなあ……物価高いのに……」  思わず慨嘆すると、エギルが更に怖い噂を教えてくれた。 「何でも、近々プレイヤーへの『課税』も始める気らしいぞ」 「へ!? 税金!? ……うそだろ、どうやって徴収するんだよ」 「モンスターのドロップから自動で天引きされたりしてな」 「お前の店も、マル査に差し押さえられたりな」  等々と頭の悪い会話を続けた俺たちも、さすがに黒鉄宮の敷石を踏んだ途端に押し黙った。  その名のとおり、黒光りする鉄柱だけで組み上げられた巨大な建物は、外より明らかに数度低い空気に満たされていた。すたすたと前を歩くアスナも、むき出しの腕を寒そうに擦っている。  時間が遅いだけあって、幸い内部に他の人間の姿は無かった。  昼間の此処は、友人や恋人の死を信じられずに確認に訪れ、名前のうえに無情に刻まれた横線を目にして泣き崩れるプレイヤーの嘆きが途絶えることはない。おそらくは、あの槍に命を奪われたカインズの友人にして事件の目撃者ヨルコも、明日あたり確かめに来るのではないだろうか。  勿論、俺もそう遠くない過去に同じことをした。今だって完全に乗り越えられたわけではない。  青みがかったかがり火に照らされた無人の広間を、俺たちは早足に歩いた。  左右に数十メートルにわたって続く『生命の碑』の前に到着しても顔を上げずに、目測で直接Gの欄あたりを睨みつける。  エギルはそこで止まらず、右のほうに歩いていった。俺とアスナは息をひそめながら列挙されるプレイヤーネームを視線でなぞり、ほぼ同時にその名前を見つけた。『Grimlock』。横線は——なし。 「……生きてるね」 「だな」  思わず、同時にほっと息をつく。  そうと判れば、もうこの場所に長居する理由はない。少し離れたKのあたりを眺めていたエギルも、すぐにひとつ頷いて戻ってきた。 「カインズ氏は、確かに死んでるぞ。サクラの月二十二日、十八時二十七分」 「……日付も時刻も間違いないわ」  アスナと同時に、短く黙祷する。カインズ——『Kains』の綴りはヨルコに目撃談を聞いたときに確認済みだ。  足早に黒鉄宮を出たところで、俺たちは一様に詰めていた息を吐き出した。  いつの間にか、街区BGMはテンポのゆっくりとした深夜帯用のものへと変わっている。NPC商店もすべて鎧戸を閉めてしまい、道を照らすのはごく薄い環境ライティングだけだ。 「……グリムロック氏を探すのは、明日にしましょう」  アスナの声に俺が頷くと、エギルが異相に情けない表情を浮かべて唸った。 「あのな……俺はだな、いちおう本業は戦士じゃなく商人でだな……」 「分かってるよ。助手役は今日でクビにしてやろう」  苦笑しながら言うと、分かりやすい安堵顔を作る。  この人のいい巨漢は、本心から「商売優先」とか「調査面倒」とか思っているわけではない。あの槍を作ったプレイヤーに直接相対するのが嫌なのだ。恐れではなく、その逆——怒りを爆発させてしまいかねないから。  ポンとエギルの背中を叩き、今日の礼を言ってから、俺たちは転移門広場への帰路についた。  五十層アルゲードに戻るエギルがまずゲートに消え、ギルドホームへ帰るというアスナとも明朝の待ち合わせを確認して分かれた。  俺の現在の定宿は、四十八層の主街区にある。青く光る転移門の渦へと飛び込み、行き先を告げ、わずかな浮遊感ののちに再び石畳へと踏み出した俺を——。  突然、六、七人のプレイヤー達が一斉に取り囲んだ。    † 5 †  一瞬、背中の剣を抜きそうになった。  たとえ何十人に囲まれようとも、『圏内』に居る限り一切の危険はない、という常識がこの数時間で少々ぐらつきつつあったせいだ。  しかし俺は、右手の指を一本ぴくっと動かしただけでどうにか自制した。集団の顔ぶれには、明確な見覚えがあった。  攻略ギルドの中でも、押しも押されぬ大手である『聖竜連合』に所属するプレイヤー達だ。半円形に並ぶその面々の中ではリーダー格と推測される一人に向けて、俺は口を開いた。 「こんばんは、シュミットさん」  機先を制して笑顔で挨拶してやると、長身のランス使いは一瞬言葉に詰まってから、再び眉間に皺を寄せて早口で言った。 「……聞きたいことがあってアンタを待ってたんだ、キリトさん」 「へえ。誕生日と血液型……じゃあないよな」  ついつい混ぜっ返すと、運動部の主将然とした短髪の下のくっきりとした眉が軽く震えた。  同じ攻略組どうし、別に敵対しているわけではないが、俺と『聖竜連合』はウマが合うほうではない。比較すれば、アスナ率いる『血盟騎士団』とのほうがまだ友好的に付き合っているかもしれない。  その理由は、血盟騎士団の目的が「最速のゲーム攻略」であるのに対して、聖竜連合のベクトルは「最強ギルドの称号」に向いている気がするからだ。彼らは基本的にギルド外メンバーとパーティーを組まないし、狩場情報も積極的には公開したがらない。その上、ボスモンスターへの|止めの一撃《エンドアタック》——アイテムドロップ判定にボーナスが付く——をかなり意地汚く欲しがる。  しかしまあ考えようによっては、SAOというゲームを一番楽しんでいる人たち、と言えなくもないので文句を口にしたことはないが、二度ほどあった加入要請はすげなく断った経緯がある。ゆえに、俺とはあまり仲がよろしいとは言えないわけだ。  今現在、転移門広場の壁を背にする俺を半円に取り囲む七人の間隔も、実に微妙な距離を作っている。プレイヤーを囲んで動けなくする『ボックス』ハラスメントとまでは言えないが、俺が輪の外に出ようとすると誰かの体に触れねばならず、それもまた非マナー行為ではあるので躊躇われるという、『なんちゃってボックス』状態である。  ため息を押し殺し、俺は語調を改めてシュミットに問うた。 「答えられることなら答えるよ。何が聞きたいんだ?」 「夕方、五十七層であったPK騒ぎのことだ」  その即答は、予想されたものだった。軽く頷き、背中を石壁に預けて腕組みすると、俺は視線で先を促した。 「デュエルじゃなかった……って噂は本当なのか」  低めの渋い声で訊かれ、俺はやや考えてから肩をすくめた。 「少なくとも、ウィナー表示窓を見た人間は誰も居なかったのは確かだ。ただ、何らかの理由で全員が見落としたという可能性はある」 「…………」  シュミットの少々角ばった顎が、ぐっと噛み締められた。首元の装甲がかしゃっと鳴る。  聖竜ギルメンの例に漏れず、プレートアーマーは銀に青の差し色が入ったカラーリングだ。背負われた主装備のランスは二メートル以上も高く突き出し、鋭い先端にはご丁寧にブルーのギルドフラッグが夜風になびいている。  しばし沈黙したあと、シュミットは一層低い声を出した。 「殺されたプレイヤーの名前……『カインズ』と聞いたが間違いないか」 「事件を目撃した友人はそう言っていた。さっき、黒鉄宮まで確認に行ってきたが時間も死因もピッタリだったぜ」  ぐび、と太い喉が動くのを見て、ここでようやく俺も不審なものを感じた。首を傾け、問い返す。 「知り合いなのか?」 「……アンタには関係ない」 「おいおい、こっちに質問だけしといてそりゃない……」  言いかけたところで、突然怒鳴られた。 「アンタは警察じゃないだろう! KoBの副長とこそこそ動いてるみたいだが、情報を独占する権利はないぞ!」  広場の外まで届いたであろう大声に、周囲のメンバーたちもやや戸惑った様子で顔を見合わせた。どうやら、シュミットが詳しい事情を話さずに頭数を集めてきただけらしい。  となると、事件に関係している可能性があるのは、聖竜連合そのものではなくシュミット個人だということだ。ふむふむと脳内にメモっていると、突然目の前にガントレットに包まれた右手が突き出された。 「アンタが現場から、PKに使われた武器を回収してったことは知ってるぞ。もう充分調べただろう、渡してもらう」 「……おいおい」  これは明らかなマナー違反行為と言っていい。  SAOでは、装備フィギュアに設定されていない武器をドロップすると、わずか六十秒で所有者属性がクリアされる。そのアイテムは、システム上も通念上も、次に拾った人間のものとなる。あの黒い槍は、カインズの命を奪った時点ですでに装備解除されていた。ゆえに、今はもう俺の名前が所有者として登録されている。  他人の武器をタダで寄越せとは横柄な話もあったものだが——しかし、確かにあの槍は、武器である以前に重要な証拠品だ。刑事でも探偵でもない俺がガメておくのもちょっとどうかと、一割ほどは思わなくもない。  よって俺は、今度は隠すことなく堂々とため息をつき、左手を振ってアイテムストレージを開いた。  実体化させた黒いショートスピアを右手で持ち上げ、せめてカッコくらいつけるべく、俺とシュミットの間の敷石に音高く突き立てる。  ギャリーン!! と盛大な火花を散らし屹立した槍を、シュミットは、気圧されたように半歩引いて見下ろした。  改めて眺めると、実に禍々しいデザインの武器だ。プレイヤーキルのためだけの仕様なのだから、当然と言えば当然だが。  一分経つのを待ちながら、俺はランス使いにせいぜい低い声で告げた。 「鑑定の手間を省いてやるよ。この槍の名前は『ギルティソーン』。造った鍛冶屋は、『グリムロック』だ」  今度こそ、明確な反応があった。  シュミットは、細めの両眼をいっぱいに見開き、口を半分開いて、嗄れた喘ぎを漏らしたのだ。  間違いなく、このお兄さんは鍛冶屋グリムロックと、そしておそらく被害者カインズの関係者だ。だが、直接訊いても無論答えるまい。  さて……と考えていると、僅かに震える腕が伸び、地面から槍を引き抜いた。  歯をぎりぎりと食いしばったシュミットは、たたき付けるようなモーションで開いたストレージにスピアを放り込み、背中のランスをがしゃっと鳴らして体の向きを変えた。  発せられた最後の言葉は、実に類型的なしろものだった。 「……あまりコソコソ嗅ぎ回らないことだ。行くぞ!」  そして聖竜連合の男たちは、足早に転移門へと消えていった。  さてさて。    † 6 † 「DDAが?」  俺の報告を聞いたとたん、アスナは僅かに目元をしかめた。  DDA、とはディヴァイン・ドラゴンズ・アライアンスの頭文字で、ギルド聖竜連合の略称である。泣く子も黙るDDA、そこのけそこのけDDAが通る、ぐらいの威圧感のある名前なのだが、その神通力もKoB副長のアスナには通じない。  明けたサクラの月二十三日は、さっそく天候パラメータの機嫌が悪く、朝から霧雨模様となっていた。空の無いアインクラッドで雨が降るのは理不尽だが、それを言えば晴天時の日差しも有り得ないことになってしまう。  午前七時ちょうどに、事件現場のある五十七層の転移門で待ち合わせた俺とアスナは、とりあえず手近なカフェテラスで朝食がてら情報を整理することにした。最大のトピックは、やはり昨夜俺を待ち伏せた上で、強引に情報と凶器を巻き上げていった聖竜ギルメン・シュミット氏のことだった。 「あー、いたわねそんな人。でっかいランス使いでしょ」 「そそ。高校の馬上槍部主将って感じの」 「そんな部活ないけどね」  朝から冴え渡る俺のユーモアを一蹴し、アスナは考え込むようにカフェオレのカップを抱えた。 「……実はそいつが犯人、てセンは無いわよね?」 「断定は危険だけど、まあ無いよな。足がつくことを恐れて凶器を回収する、くらいなら最初から現場に残す必要がない。あの槍はむしろ、犯人のメッセージだったと俺は思う」 「そうだね。あの殺し方に加えて、武器の名前が『罪の茨』じゃ、これは処刑だぞ、って大声で言ってるようなもんだものね」  そう——、それ以外の何者でもなかろう、恐らく。  俺は声をひそめて、導かれる推察を口にした。 「つまり、動機は復讐ってことだよな。過去にあのカインズ氏が何か『罪』を犯して、それに対する『罰』として殺したと、犯人はそう主張しているわけだ」 「そう考えると、シュミットはむしろ、犯人側じゃなくて狙われる側、って感じだわね。以前にカインズと一緒に何かをして、その片方が殺されたから焦って動いた……」 「その『何か』が分かれば、自動的に復讐者も分かる気がするな。……ただ、これが全部、犯人の演出に過ぎない可能性もある。先入観は持たないようにしないと」 「うん。特に、ヨルコさんに話を聞くときはね」  アスナと同時に頷きあい、俺はちらっと時刻表示を確認した。午前九時になったら、すぐ近くの宿屋に滞在中のヨルコに、もう一度詳しい事情を聞きにいくことになっている。  黒パンとチーズに野菜スープの朝食をもそもそ食べ終えても時間がかなり余り、俺は向かいに座るアスナの姿をぽけーっと眺めた。  今日は、私用だからということなのか、いつもの白地に赤の縁取りのある騎士服ではない。ピンクとグレーの細いストライプ柄のシャツに黒レザーのベストを重ね、ミニスカートもレースのフリルがついた黒、脚にはグレーのプリントタイツ。  おまけに靴はピンクのエナメル、頭にも同色のベレーとくれば、何だかやたらとキメてきている——ような気もするが、これが女性プレイヤーの平均的普段着であるのかもしれないし、それが判断できるほどのファッションアイテムの知識は残念ながら持ち合わせていない。何せ、どれだけ見ても、上から下までで総額何コルかかっているのか見当もつかないのだ。  だいたい、殺人事件の調査にオシャレしてくる理由もないし、などとぼんやり考えていると、不意にアスナがちらっと視線を上げ、ぷいと横を向いた。 「……何見てるの」 「えっ……あ、いや……」  よもや服の値段を訊くわけにも行かず、さりとて『可愛い服だね、よく似合ってるよ』などと言おうものなら大激怒か大爆笑されることは必至なので、とっさに取り繕う。 「えーと……そのどろっとした奴、旨い?」  アスナは瞬きし、スプーンでつついていた謎のポタージュっぽいものを見下ろし、もう一度俺を見て何とも微妙な表情を作ったあと、はぁーっと深く長いため息をついた。 「……おいしくない」  ぽそっと答えて皿ごと脇に押しやる。軽い咳払いを挟み、細剣使いは口調を改めた。 「わたし、昨夜ちょっと考えたんだけどね。きのうの槍が発生させた『貫通継続ダメージ』だけど……」  そういえば、この女が帯剣してないとこは始めて見るかも、などと今更気付きつつ俺は頷いた。 「うん?」 「例えば、圏外で貫通属性武器を刺されるじゃない? そのまま圏内に移動したら、継続ダメージってどうなるのか、君知ってる?」 「えー……と」  思わず首を捻る。確かに、そんなシチュエーションにはこれまで遭遇したことはないし、考えたことすらない。 「いや、知らないな……。でも、毒とかは圏内入った瞬間消えるだろ? 継続ダメージも同じじゃないか?」 「でも、そしたら刺さってる武器はどうなるの? 自動で抜けるの?」 「それもなんだか気持ち悪いな。……よし、まだちょっと時間あるし、実験しようぜ」  俺の言葉に、アスナが目を丸くした。 「じ、実験!?」 「百聞一見」  怪しげな四字熟語とともに立ち上がると、俺は街区マップを呼び出し、最寄の門への道を確認した。  マーテンの街の外は、節くれだった古樹が点在する草原になっていた。  ほんの数週間前、ここが最前線だったときに散々通った道なのだが、すでに記憶は薄い。春の訪れとともに緑が芽吹いたせいもあろうが、基本的には、攻略された層の圏外フィールドというのはほとんど用の無い場所なのだ。  しとしと降る霧雨を掻き分けて、市街の門から出たとたん、視界に『Outer Field』の警告が表示された。別に、すぐにモンスターが襲ってくるわけではないものの心の一部が自動的に緊張する。  腰にいつものレイピアを装備しなおしたアスナは、前髪に溜まる水滴を煩わしそうに弾いてから、怪訝そうな声を出した。 「で……実験て、どうする気?」 「こうする気」  俺はベルトを探ると、常に三本装備されている『スローイング・ピック』を一本抜き出した。  アインクラッドに存在するあらゆる武器は、斬撃《スラッシュ》・刺突《スラスト》・打撃《ブラント》・貫通《ピアース》の四属性に分類される。俺のメインウェポンである片手直剣は斬撃武器だし、アスナのレイピアは刺突武器だ。メイスやハンマーが打撃、そしてカインズを殺したスピアや、シュミットの持つランスが貫通武器ということになる。  ここで微妙なのが、幾つか存在する投擲系武器の扱いだ。同じ投げモノでも、ブーメランや円形の刃を持つチャクラムは斬撃、スローイングダガーは刺突、そして俺のスローイングピックは貫通と属性が分かれる。そう、たかだか長さ十二センチほどの大型の鉄針にしか見えないが、このピックは立派な貫通武器であり、ゆえに僅かながら継続ダメージが発生するのだ。  自分のHPは実験に提供しても、装備の耐久度まで減らすのは馬鹿らしいので左手のグローブを外し、広げた手の甲に向けて俺は右手のピックを振り上げた。 「ちょ……ちょっと待って!」  鋭い声にぴたっと手を止める。  見ると、アスナはアイテム窓を開き、治癒クリスタルを取り出しているところだった。思わず苦笑する。 「大げさだなぁ。こんなピックが手に刺さったくらいじゃ、総HPの一、二パーセントくらいしか減らないよ」 「バカ! 圏外じゃ何が起きるかわからないのよ! さっさとパーティー組んでHPバー見せて!!」  愚かな弟を叱る姉のような口調で雷を落としたアスナは、さらにウインドウを操作し、俺にPT要請を飛ばしてきた。首を縮めて即座に受諾すると、視界左上の俺のHPバーの下に、やや小型のアスナのHPも出現した。  考えてみれば、この女とPTを組むのはこれが初めてのことだ。ボス攻略を巡る意見の対立から、デュエルまでしたのもそう昔のことではないというのに。  右手にピンクのクリスタルを握り、緊張した面持ちで待機するアスナの顔を、俺は思わずまじまじと眺めてしまった。 「…………なに?」 「いや……なんつうか、こんなに心配してくれると思わなくて……」  言ったとたん、アスナの白い頬が結晶と同じ色に染まり、目を丸くした俺を再びの落雷が襲った。 「ち……違うわよ! いえ、違わないけど……もう、さっさとしてよ!!」  ひぃっ、と震え上がり、改めてピックを構える。 「じゃ、じゃあ、いきます」  宣言してから、大きく息を吸い——。  俺は、まっすぐ伸ばした自分の左手目掛けて、投剣スキルの初級技『シングルシュート』のモーションを起こした。  右手の二本の指で挟んだピックが、控えめなライトエフェクトとともにぴうっと飛翔し、直後にどすっと手の甲を貫通した。  衝撃に続いて、不快な痺れと僅かな鈍痛が神経を走る。  HPバーは、予想より僅かに多く、約三パーセントを減らしていた。そう言えばこのあいだピックを高級なドロップ品に換えたんだった、と今更思い出す。  不快感に耐えながら、刺さった鉄針を眺めていると、五秒後に再び赤いエフェクト光が閃いた。同時にHPが〇・五%ほど削れる。まさにこれが、カインズの命を奪った『貫通継続ダメージ』に他ならない。 「……はやく圏内に入ってよ!」  強張るアスナの声に背を押され、俺はひとつ頷くと、HPバーとピックの双方に視線を据えたまますぐ近くのゲートへと向かった。  ブーツの底が踏む湿った草が、硬い石畳へと変わると同時に、視界に『Inner Area』の表示が浮かんだ。  そして——HPバーの減少が停止した。  五秒ごとに赤いエフェクトがフラッシュはするのだが、ヒットポイントは僅かにも減らない。やはり、圏内ではあらゆるダメージはキャンセルされるのだ。 「……止まった、わね」  アスナの呟きに、こくりと首肯する。 「武器は刺さったまま、でも継続ダメージは停止、か」 「感覚は?」 「残ってる。これは……武器を体にぶっ刺したまま圏内をうろつくバカモノが出ないようにするための仕様かな……」 「今の君のことだけどね」  冷たい声で言われ、首を縮めてピックを摘むと、一思いに引き抜いた。神経をひときわ強い不快感が走り、思わず眉をしかめる。  左手の甲には何の傷も残っていないが、冷たい金属の感触はいっこうに去ろうとせず、俺はそこをふーふー吹きながら呟いた。 「ダメージは確かに止まった……。てことは、カインズは何故死んだんだ……? あの武器だけの特性なのか……あるいは未知のスキルか……ってうわ!?」  最後の叫び声の理由は——。  いきなりアスナが、俺の左手を両手で掴んで引き寄せて、ピックが刺さっていた箇所をぺろっと舐めたことによるものだ。 「おまっ……な……なっ……」  すぐに顔を背け、横目で俺を見て、曰く。 「がんばったから、ごほーび」  ————————。  突然心臓がばくばく言い出したのは、ただびっくりしたからだ。  それだけだ、絶対に。    † 7 †  九時ぴったりに宿屋から出てきたヨルコは、余り眠れなかったらしく、何度も瞬きを繰り返しながら俺とアスナにぺこっと一礼した。  同じように頭を下げてから、まずは詫びる。 「悪いな、友達が亡くなったばっかりなのに……」 「いえ……」  ブルーブラックの髪を揺らし、ヨルコはかぶりを振った。 「いいんです。私も、早く犯人を見つけて欲しいですし……」  言いながら視線をアスナに移した途端、目を丸くする。 「うわぁ、凄いですね。その服ぜんぶ、アシュレイさんのワンメイク品でしょう。全身揃ってるとこ、初めて見ましたー」  ……また新しい名前が出てきたぞ、と思いながら俺は訪ねた。 「それ、誰?」 「知らないんですかぁ!?」  だめな人を見る目で俺を眺めてから、ヨルコは解説してくれた。 「アシュレイさんは、アインクラッドで一番早く裁縫スキル一〇〇〇を達成したカリスマお針子ですよ! 最高級生地のレア素材持参じゃないと、なかなか作ってもらえないんですよー」 「へーっ!」  素直に感心する。アホみたいに戦闘ばかりしている俺とても、片手直剣スキルが一〇〇〇に到達したのはそう昔の話ではない。  ついついアスナの頭からつま先まで視線を高速移動させていると、細剣使いは頬の辺りを引き攣らせ、ひと言叫んで歩きはじめてしまった。 「ち……違うからね!」  ——何がどう違うんでしょうか。  やけに得心したふうのヨルコと、さっぱり解らない俺を引き連れて、アスナは昨夜夕食を食べ損ねたレストランのドアを潜った。  時間が時間だけあって、店内に他のプレイヤーの姿はない。一番奥まったテーブルにつき、ちらりとドアまでの距離を確かめる。これだけ離れていれば、大声で叫びでもしない限りは、店の外まで会話が漏れることはない。  ナイショ話をしたいなら宿屋の部屋をロックするのが一番、と俺も以前は思っていたが、それだと逆に聞き耳スキルの高い奴に盗み聞きされてしまう危険が高まると最近学んだ。  ヨルコも朝食はもう済ませたというので、三人同じお茶だけをオーダーし、速攻届いたところで改めて本題に入る。 「まず、報告なんだけど……昨夜、黒鉄宮の『生命の碑』を確認してきたんだ。カインズさんは、あの時間に確かに亡くなってた」  俺の言葉に、ヨルコは短く息を吸い込み、瞑目してからこくりと頷いた。 「そう……ですか。有難うございました、わざわざ遠いとこまで行って頂いて……」 「ううん、いいの。それに、確かめたかった名前が、もう一つあったし」  さっと首を振ってから、アスナがややひそめられた声で、最初の重要な質問を放った。 「ね、ヨルコさん。あなた、この名前に聞き覚えはある? 一人は、多分鍛冶プレイヤーで、『グリムロック』。そしてもう一人は、槍使いで……『シュミット』」  俯けられたヨルコの頭が、ぴくりと震えた。  やがて、ゆっくりとした、しかし明確な肯定のジェスチャーがあった。 「……はい、知ってます。二人とも、昔、私とカインズが所属してたギルドのメンバーです」  か細い声に、俺とアスナはちらっと視線を見交わした。  やはりそうか。となれば、もう一つの推測——かつて、そのギルドで今回の事件の原因となる『何か』があったのかどうかも確認せねばならない。  今度は、俺が二つ目の質問を発した。 「ヨルコさん。答えにくいことだと思うんだけど……事件解決のために、本当のところを聞かせてほしいんだ。俺たちは、今回の事件を『復讐』だと思っている。カインズさんは、そのギルドで起こった何らかの出来事のせいで、犯人の恨みを買い、報復されたんじゃないかと……。何か、心当たりはないかい……?」  今度は、すぐには答えが返ってこなかった。  ヨルコは俯いたまま、長い沈黙を続けたあと、かすかに震える手でお茶のカップを持ち上げ、唇を湿らせてからようやく頷いた。 「……はい……あります。そのせいで、私たちのギルドは消滅したんです。忘れたかった……忘れたはずの出来事ですけど……お話しします……」  ——ギルドの名前は、『黄金林檎』っていいました。べつに攻略目的でもなんでもない、総勢たった八人の弱小ギルドで、宿代と食事代のためだけの安全な狩りだけしてたんです。  でも、半年前……去年の秋口のことでした。  中間層の、なんてことないサブダンジョンに潜ってた私たちは、それまで一度も見たことのないモンスターとエンカウントしたんです。全身まっくろのトカゲ型で、もの凄くすばしっこい……一目でレアモンスターだって解りました。大騒ぎになって、夢中で追いかけまわして……誰かの投げたダガーが、偶然、ほんとにものすごいラッキーで命中して、倒せたんです。  ドロップしたアイテムは、地味な指輪がひとつだけでした。でも、鑑定してみて皆びっくりしました。敏捷力が、二十も上がるんですよ。そんなアクセサリ、たぶんいまの最前線でもドロップしてないと思います。  そこから先は……想像、できますよね。  ギルドで使おうって意見と、売って儲けを分配しようって意見で割れて、かなりケンカに近い言い合いになったあと、多数決できめたんです。結果は、五対三で売却でした。そこまでのレアアイテム、とても中層の商人さんには扱えないので、ギルドリーダーが最前線まで持っていって競売屋に委託することになりました。  その日はそこで解散して、オークションが終わってリーダーが帰ってくるのをわくわくしながら待ちました。八人で分配してもきっとすごいお金になるから、あのお店の武器を買おうとか、ブランドのお洋服買おうとか、カタログ見ながらあれこれ考えて……、その時は、まさか……あんなことになるなんて……。  …………リーダー、帰ってこなかったんです。  翌日夜の待ち合わせを一時間過ぎても、メッセージ一つ届かなくて。位置追跡も反応ないし、こっちからのメッセージ送っても返事がないし。  嫌な予感がして、何人かで、黒鉄宮の『生命の碑』を確認にいきました。  そしたら…………。  ヨルコはそこでぎゅっと唇を噛み、ゆっくりと首を左右に振った。  俺とアスナは、しばしかけるべき言葉を見つけられなかった。  幸い——と言うべきか、ヨルコはやがて目尻を拭うと顔を上げ、震えてはいるがはっきりした口調で告げた。 「死亡時刻は、リーダーが指輪を預かって上層に行った日の夜中、一時過ぎでした。死亡理由は……貫通属性ダメージ、です」 「……そんなレアアイテムを抱えて圏外に出るはずがないよな。てことは……『睡眠PK』か」  俺が呟くと、アスナもかすかに首肯した。 「半年前なら、まだ手口が広まる直前だわ。宿代を惜しんで、パブリックスペースで寝る人もそれなりに居た頃よ」 「前線近くは宿屋も高いしな……。ただ……偶然とは考えにくいな。リーダーさんを狙ったのは、指輪のことを知っていたプレイヤー……つまり……」  瞑目したヨルコが、こくりと頭を動かした。 「ギルド『黄金林檎』の残り七人……の誰か。私たちも、当然そう考えました。ただ……その時間に、誰がどこに居たのかをさかのぼって調べる方法はありませんから……皆が皆を疑う状況のなか、ギルドが崩壊するまでそう長い時間はかかりませんでした」  再び、重苦しい沈黙がテーブル上を這った。  嫌な話だ、とても。  同時に、あり得ることだ。じゅうぶんに。  万に一つの幸運でドロップしたレアアイテムが原因で、それまで不和の兆しすらなかった仲良しギルドが崩壊してしまう例というのは実はそう珍しいことではない。話としてあまり聞かないのは、当事者たちにとっては消し去ってしまいたいだけの記憶だからだ。  しかし、ここで俺はどうしても、ヨルコにしなければならない質問があった。  沈鬱な表情で俯く女性に、俺はあえて渇いた口調で尋ねた。 「ひとつ、教えてほしい。そのレア指輪の売却分配に反対した三人の、名前は……?」  さらに数秒間黙りつづけてから、ヨルコは意を決したように顔を上げ、はっきりと答えた。 「カインズ、シュミット……そして、私です」    † 8 †  やや意外な回答、ではあった。  無言で瞬きだけをした俺に向かって、ヨルコはかすかに自嘲の滲む言葉を続けた。 「ただ、反対の理由は、彼らと私で少し違いました。カインズとシュミットは、前衛戦士として自分で使いたいから。そして私は……当時、カインズと付き合いはじめていたからです。ギルド全体の利益よりも彼氏への気兼ねを優先しちゃったんです。バカですよね」  口をつぐみ、テーブルに視線を落とすヨルコに、これまで長く沈黙していたアスナが柔らかい語調で訊ねた。 「ね、ヨルコさん。もしかして……あなた、カインズさんと、ずっとお付き合いしてたの……?」  すると、ヨルコは俯いたまま、ゆっくりと首を左右に振った。 「……ギルド解散と同時に、自然消滅しちゃいました。たまに会って、ちょこっと近況報告するくらいで……やっぱり、長く一緒にいればどうしても指輪事件のこと思い出しちゃいますから。昨日もそんな感じで、ご飯だけの予定だったんですけど……その前に、あんなことに……」 「……そう……。——でも、ショックなのは変わらないわよね。ごめんなさいね、辛いこと色々訊いちゃって」  ヨルコは再び短くかぶりを振った。 「いえ、いいんです。それで……グリムロックですけど……」  突然その名前を切り出され、俺は思わずまっすぐに座りなおした。 「……彼は『黄金林檎』のサブリーダーでした。そして同時に、ギルドリーダーの旦那さんでもありました」 「え……、リーダーさんは、女の人だったのか?」  思わず確認すると、ヨルコはこくりと頷いた。 「ええ。とっても強い……と言ってもあくまでボリュームゾーンでの話ですけど……強い片手剣士で、美人で、私はすごく憧れてました。だから……今でも信じられないんです。あのリーダーが、たとえ『睡眠PK』にせよ、むざむざ殺されちゃうなんて……」 「……じゃあ、グリムロックさんもショックだったでしょうね。結婚までするほど好きだった相手が……」  アスナの呟きに、ヨルコはぶるっと身体を震わせた。 「はい。それまでは、いつもニコニコしてる優しい鍛冶屋さんだったんですけど……事件直後からは、とっても荒んだ感じになっちゃって……ギルド解散後は誰とも連絡取らなくなって、今はもうどこに居るかも分からないです」 「そうか……。辛い質問ばかりして悪いけど、最後にもう一つだけ教えてほしい。昨日の事件……カインズさんを殺したのがグリムロックさんだ、という可能性は、あると思うか? 実は、カインズさんの胸に刺さっていた黒い槍……鑑定したら、作成したのはグリムロックさん当人だったんだ」  この問いはつまり、半年前の『指輪事件』の真犯人がカインズである可能性があるか、と尋ねているに等しい。  ヨルコは長い逡巡を見せたあと、ごく僅かな動きで、首を縦に振った。 「……はい、そう思います。でも、カインズも、私も、リーダーをPKして指輪を奪ったりなんかしてません。無実の証拠はなにも無いですけど……。もし昨日の事件の犯人がグリムロックさんなら……あの人は、指輪売却に反対した三人を、全員殺すつもりなのかもしれません……」  俺とアスナは、ヨルコをもとの宿屋に送り届けたあと、数日分の食料アイテムを渡して絶対に部屋から出ないよう言い含めた。  せめてもの配慮として、宿屋でもっとも広い三部屋続きのスイートに移動してもらい、料金も一週間ぶん前払いしておいたが、暇つぶしにネットゲームをすることもできないアインクラッドでは閉じこもっているにも限度がある。なるべく早く事件を解決すると約束し、俺たちは宿屋を後にした。 「……ほんとは、KoBの本部に移ってもらえればもっと安心なんだけどね……」  アスナの言葉に、俺は五十五層『鉄の都』グランザムに新設されたばかりのKoBギルド本部の威容を思い出しながら頷いた。 「まあな……。でも、本人がどうしても嫌だって言うなら無理強いもできないしな」  ヨルコをKoB本部で保護するためには、事情をギルドにあまさず説明せねばならない。それはつまり、半年前の『黄金林檎』解散劇の一部始終がオープンになるということだ。ヨルコはおそらく、カインズの名誉のためにそれを拒んだのだろう。  転移門広場まで戻ると同時に、街に十一時の鐘が響いた。  雨はようやく上がったが、代わりに濃い霧が漂い始めた。俺はそれを透かして、黒とアッシュピンクで統一された装いのアスナを見やり、口を開きかけた。 「さて、これから……」 「……?」  尻切れトンボに黙り込んだ俺に、アスナが首をかしげた。  今更すぎる——のは確かだろうが、やはりここはヒトコトでも言っておくべきなのだろうか。 「あ、いや、え——と。その……よ、よく似合ってますよ、それ」  おお言えた。これで俺も一流の紳士。  と思ったのも束の間、めりっと音がしそうなほどに剣呑な顔になったアスナが、右手の人差し指をどすんと俺の胸につきつけながら唸り声を出した。 「うー! そーゆーのはね、最初に見たときに言いなさい!!」  着替えてくる! と超高速反転したその横顔が、耳まで赤くなっていたのは、やはり激怒ゆえであろうか。  分からない。まったく分からない、女性というものは。  手近の無人家屋を利用して装備をふだんの騎士装に変更したアスナは、長い髪を背中に払いながらつかつかと戻ってくると言った。 「で、これからどうするの?」 「あ、は、はい。選択肢としては……その一、中層で手当たり次第にグリムロックの名前を聞き込んで居場所を探す。その二、ギルド黄金林檎のほかのメンバーを訪ねて、ヨルコの話の裏づけを取る。その三……カインズ殺害の手口の詳しい検討をする、くらいかな」 「ふむむ」  腕組みをし、アスナは首をかしげた。 「その一は、二人じゃちょっと効率悪すぎるわね。現在の推測どおりグリムロックが犯人なら、積極的に身を隠してるでしょうし。その二は……結局ほかのメンバーも当事者なんだから、裏の取りようがないって言うか……」 「へ? どういうこと?」 「つまり、仮にさっきのヨルコさんの話と矛盾する情報が聞けたとするじゃない? でも、私たちにはどっちが真実なのか断定するすべなんか無いってことよ。混乱するだけだわ。もうちょっと客観的な判断材料が欲しいわね……」 「じゃあ……その三か」  ちらりと目を見交わし、俺たちはこくりと頷いた。  そもそも俺とアスナがこの事件にここまで熱心に首を突っ込んでいるのは、ヨルコには申し訳ないが『黄金林檎』リーダー殺害事件の真相を暴くためではなく、カインズを殺した『圏内PK』の手口を突き止めるためなのだ。  昨夜、目の前で起きたあの事象に関して断定できたことは、『圏外で発生した貫通継続ダメージを圏内に持ち込んだものではない』という一点のみだ。他にどのような可能性があるのか、一度とことん議論しておく必要はある。 「でもな……もうちょっと、知識のある奴の協力が欲しいな……」  俺が呟くと、アスナが眉をひそめた。 「そうは言っても、無闇と情報をばら撒いちゃヨルコさんに悪いわ。絶対に信頼できる、それでいて私たち以上にSAOのシステムに詳しい人なんか、そうそう……」 「…………あ」  俺はふと、一人のプレイヤーの名前を思いつき、指をぱちんと鳴らした。 「いるじゃん。あいつ呼び出そうぜ」 「誰?」  俺が名を告げたとたん、アスナが目を剥いてのけぞった。  昼飯オゴるから、という俺署名の追記に惹かれたわけではないだろうが、アスナがメッセージを飛ばした三十分後、本当にその男が現れたのには少々驚いた。  アルゲード転移門から音も無く進み出た長身の姿を見たとたん、広場に満ちるプレイヤーたちが激しくざわめいた。暗赤色のローブの背にホワイトブロンドの長髪を束ねて流し、一切の武器を持たない、SAOには存在しない『魔導師』クラスとすら思える雰囲気をまとう男——ギルド『血盟騎士団』リーダーにしてアインクラッド最強の剣士、『神聖剣』ヒースクリフは、俺たちを見るとぴくりと片方の眉を持ち上げ、滑るように近づいてきた。  アスナがびしいっと音がしそうな動作で敬礼し、急き込むように弁解した。 「すみません団長! このバ……いえ、この者がどうしてもと言ってきかないものですから……」 「何、ちょうど昼食にしようと思っていたところだ。かの『黒の剣士』キリト君にご馳走してもらえる機会など、そうそうあろうとも思えないしな」  滑らか、かつ鋼のようなテノールでそう言うヒースクリフの整った顔を見上げ、俺は肩をすくめた。 「あんたにはここのボス戦で十分もタゲ取ってもらった礼をまだしてなかったしさ。そのついでに、ちょっと興味深い話を聞かせてやるよ」    † 9 †  最強ギルドKoBのナンバー1と2を、俺はアルゲードでもっとも胡散臭い謎のNPCメシ屋に案内した。  迷宮のような隘路を、五分ほども右に折れ下に潜り左に回って上に登りした先に、ようやく現れた薄暗い店を眺めてアスナが言った。 「……帰りもちゃんと道案内してよね。わたしもうゲートまで戻れないよ」 「ウワサじゃあこの街には、道に迷ったあげく転移結晶も持ってなくて、延々さまよってるプレイヤーが何十人も居るらしいよ」  俺が薄く微笑みながらそう脅かすと、ヒースクリフが何事でもないように注釈を加えた。 「道端のNPCに頼めば十コルで広場まで案内してくれるのだ。その金額すらも持っていない場合は……」  上向けた両手をひょいっと持ち上げ、すたすた店に入っていく。  何ともいえない顔になったアスナとともに、俺も後を追った。  狭い店内は、期待通りまったくの無人だった。安っぽいテーブルにつき、陰気な店主にアルゲードそば三人前を注文してから、曇ったコップで氷水をすする。 「なんだか……残念会みたくなってきたんだけど……」 「気のせい気のせい。それより、忙しい団長どののために早速本題に入ろうぜ」  俺の向かいで涼しい顔をしているヒースクリフを、ちらっと見上げて俺は言った。  昨夜の事件のあらましを、アスナが的確かつ簡潔にまとめて説明するのを聞くあいだも、『神聖剣』の表情はほとんど変わることはなかった。ただ唯一、カインズの死の場面で、片方の眉がぴくっと動いた。 「……そんなわけで、ご面倒おかけしますが、団長のお知恵を拝借できればと……」  アスナがそう締めくくると、ヒースクリフはもう一くち氷水を含み、ふむ、と呟いた。 「では、まずはキリト君の推測から聞こうじゃないか。君は、今回の『圏内殺人』の手口をどう考えているのかな?」  話を振られ、俺は頬杖をついていた手をはずして指を三本立てた。 「まあ……大まかには三通りだよな。まず一つ目は、正当な圏内デュエルによるもの。二つ目は、既知の手段の組み合わせによるシステム上の抜け道。そして三つ目は……アンチクリミナルコードを無効化する未知のスキル、あるいはアイテム」 「三つ目の可能性は除外してよい」  即座にそう言い切ったヒースクリフの顔を、俺は思わずまじまじと凝視してしまった。アスナも同様に、二、三度瞬きしてから呟く。 「……断言しますね、団長」 「想像したまえ。もし君らがこのゲームの開発者なら、そのようなスキルなり武器を設定するかね?」 「まあ……しないかな」 「何故そう思う?」  磁力的な視線を放つ真鍮色の瞳をちらりと見返し、俺は答えた。 「そりゃ……フェアじゃないから。認めるのもちょい業腹だけど、SAOのルールは基本的にフェアネスを貫いてる。たった一つ、あんたの『ユニークスキル』を除いては、な」  最後の一言を、片頬の笑みとともに付け加えてやると、ヒースクリフも無言で同種の微笑を返してきた。少しばかりギクッとする。  いくらKoB団長とは言え、つい最近俺のスキルスロットに追加された『あれ』のことまでは知らないはずだ。  謎のニヤニヤ笑いの応酬を続ける俺とヒースクリフを順に見やって、アスナがため息混じりに首を振り、言葉を挟んだ。 「どっちにせよ、今の段階で三つ目の可能性を云々するのは時間の無駄だわ。確認のしようがないもの。てことで……仮説その一、デュエルによるPKから検討しましょう」 「よかろう。……しかし、料理が出てくるのが遅いな、この店は」  眉をひそめ、カウンターの奥を見やるヒースクリフに、俺は肩をすくめて見せた。 「俺の知る限り、あのマスターがアインクラッドで一番やる気ないNPCだね。そこも含めて楽しめよ。氷水なら幾らでもおかわりできる」  卓上の安っぽい水差しから、団長殿の前のコップにどばどば注いでから続ける。 「——圏内でプレイヤーが死んだならそれはデュエルの結果、てのがまぁ、常識だよな。だが、これは断言していいが、カインズが死んだときウィナー表示はどこにも出なかった。そんなデュエルってあるのか?」  すると、隣でアスナが軽く首をかしげた。 「……そういえば、今まで気にしたこともなかったけど、ウィナー表示の出る位置ってどういう決まりになってるの?」 「へ? ……うーん」  確かに、それは俺も考えもしなかったことだ。しかし、ヒースクリフは迷うふうもなく即座に答えた。 「決闘者ふたりの中間位置。あるいは、決着時ふたりの距離が十メートル以上離れている場合は、双方の至近に二枚のウインドウが表示される」 「……よく知ってんな、そんなルール。てことは……カインズから最も遠くても五メートル弱の位置には出たはずだな」  あの惨劇の様子を脳裏に再生し、俺はぷるぷる首を振った。 「周囲のオープンスペースには窓は出なかった。これは確実だ、目撃者があんだけ居たんだからな。あとは、カインズの背後の教会の中に出た場合だけど、それならあの時点で犯人もまた教会内部に居たはずで、カインズが死ぬ前に中に飛び込んでったアスナと鉢合わせてなきゃおかしい」 「そもそも、教会の中にもウィナー表示は出なかったよ」  アスナが付け加える。  うむむ、と唸ってから——。 「……デュエルじゃなかった……のか、やっぱり」  呟くと、うらぶれたメシ屋の店内に、いっそう濃い影が落ちた気がした。 「……選択間違ってない? このお店……」  呟いたアスナが、切り替えるようにコップを干し、たんっとテーブルに置いた。そこにすかさず氷水をなみなみ満たす俺。  微妙な顔でアリガトと言い、アスナは指を二本立てた。 「じゃあ、残る可能性は二つ目のやつだけね。『システム上の抜け道』。……わたしね、どうしても引っかかるのよ」 「何が?」 「『貫通継続ダメージ』」  テーブル上に、必要も無いのに置いてある爪楊枝(この世界では歯は汚れない)を一本抜き、アスナはそのささやかな武器でしゅっと空気を貫いた。 「あの槍は、公開処刑の演出だけじゃない気がするの。圏内PKを実現するために、継続ダメージがどうしても必要だった……そう思えるのよ」 「うん。それは俺も感じる」  頷いてから、しかし俺はおもむろにかぶりを振る。 「でも、それはさっき実験したじゃないか。たとえ圏外で貫通武器を刺しても、圏内に移動すればダメージは止まる」 「歩いて移動した場合は、ね。なら……『回廊結晶』はどうなの? あの教会の小部屋を出口に設定したクリスタルを用意して、圏外からテレポートしてくる……その場合も、ダメージは止まるのかしら?」 「止まるとも」  再び、ヒースクリフが切れ味鋭く即答した。 「徒歩だろうと、回廊によるテレポートだろうと、あるいは誰かに放り投げられようと、圏内……つまり街の中に入った時点で、『コード』は例外なく適用される」 「ちょっと待った。その、『街の中』てのは、地面や建物の内部だけか? 上空はどうなる?」  ふと、奇妙な空想にとらわれて俺は尋ねた。  あのロープ。槍に貫かれたカインズの首にロープを掛け、地面に触れないよう吊り上げたまま回廊を通して教会の窓からぶら下げる……?  これには、さしものヒースクリフもやや迷った様子を見せた。  しかしほんの二秒後、束ねられた長髪がゆっくり横に揺れた。 「いや——、厳密に言えば、『圏内』は街区の境界線から垂直に伸び、空の蓋、つまり次層の底まで続く円柱状の空間だ。その三次元座標に移動した瞬間、『コード』はその者を保護する。だから、仮に街の上空百メートルに回廊の出口を設定し、圏外からそこに飛び込んでも、落下ダメージは発生しないことになる。大いに不快な神経ショックを味わうことにはなるが」 「へえーっ」  俺とアスナは異口同音に嘆声を漏らした。 『圏内』エリアの形状にではない。そんなことまで知っているヒースクリフの博覧強記ぶりに対してだ。ギルドマスターというのはそこまで勉強しなきゃ務まらないのか、と思いかけたが、脳裏に某カタナ使いの無精ひげ面が浮かび即座に否定する。  しかし——。  となると、だ。例え『貫通継続ダメージ』と言えども、カインズが圏内に居た以上、その発生は停止していなくてはならない。つまりあの男のHPを削りきったのは、短槍『ギルティソーン』以外のダメージソースである、ということになる——のだが。そこに、抜け道がありはしないだろうか。  考え考え、ゆっくりと推測を口にする。 「……生命の碑には、カインズの死亡時刻とともに、その死亡原因も確かに表記されていた。『貫通属性攻撃』、とね。そして、カインズの消滅とともに現場に残ったのは、あの黒い槍だけだった」 「そうね。他の武器がひそかに用いられたとは考えにくいわ」 「いいか……」  俺は脳内で、強力なモンスターにクリティカルヒットを食らったときのあの胃がでんぐり返るような感覚を思い起こしながら先を続けた。 「物凄い威力の一撃をもらったとき、HPバーはどうなる?」  アスナは、何を今更と言いたげな眼で俺を見やり、答えた。 「ごっそり減るわよ、もちろん」 「その減りかただよ。あるハバが一瞬でゴソっと消滅するわけじゃなくて、右端からスライドして減っていくだろ。つまり、被弾と、その結果としてのHP減算のあいだには、僅かながらタイムラグがあるわけだ」  ここに至って、ようやくアスナは俺の言いたいことを察したようだった。ヒースクリフのほうは完璧な無表情を保っているので、内心はとても見抜けない。  二人を順繰りに見てから、俺は手振りとともに言った。 「例えば、だ。圏外において、カインズのHPを、槍の一撃で満タンからゼロまで持っていく。あいつは装備から見ても壁タイプの戦士だ、HPの総量はかなりの数字だったろう。バーが左端まで減り切るのに、そうだな……五秒はかかってもおかしくない。その間に、カインズを回廊で教会に送り、窓からぶら下げる……」 「ちょ……ちょっと待ってよ」  アスナが掠れた声で遮った。 「攻略組じゃなかったにせよ、カインズさんはボリュームゾーンでは上のほうのプレイヤーだった。そんな人のHPを単発ソードスキルで削りきるなんて、私にも……キミにも不可能なはずだわ!」    † 10 † 「まあ、そうだろうな」  軽く頷く。 「たとえ『ヴォーパル・ストライク』がクリティカルで入っても、半分も減らせないだろう。でも、SAOには何万というプレイヤーが居るんだ。攻略組に所属していない……つまり俺やアスナがまったく知らない、しかもレベルがはるかに上の剣士が存在するという可能性は否定できない」 「つまり……あの槍でカインズさんを殺したのがグリムロックさん本人なのか、依頼された『レッド』なのかは分からないけど、ともかくその当人は、フル武装の壁戦士《タンク》を一撃死させられるほどの実力者だ、って言いたいの……?」  肯定の意を示すためにひょいっと肩をすくめてから、俺は『先生』の採点を待つ気分で向かいに座る男を見やった。  ヒースクリフは、半眼に閉じた瞳をしばらくテーブルに向けていたが、やがてゆっくりと頷いた。 「手法としては、不可能ではない。確かに、圏外において対象プレイヤーのHPを一撃で消失せしめ、あらかじめ開いておいたコリドーによって即座にテレポートさせれば、見かけ上の『圏内PK』を演出することは出来る」  おっ、もしや正解? と思ったのも束の間、よく通る声で「だが」の一言が続いた。 「……無論君も知っているだろうが、貫通武器の特性というのは、一にリーチ、二に装甲貫通力だ。単純な威力では、打撃武器や斬撃武器に劣る。重量級の大型ランスならまだしも、ショートスピアならば尚更だ」  これは痛いところを突かれた。  不貞腐れる子供のように唇を尖らせる俺に、かすかな笑みを向けてヒースクリフは続けた。 「決して高級品ではないショートスピアで、ボリュームゾーンの壁戦士を一撃死させようと思ったら……そうだな、現時点でレベル一〇〇には達している必要があろうかと思うが」 「ひゃくぅ!?」  素っ頓狂な声を出したのはアスナだ。  見開いたはしばみ色の瞳で、ヒースクリフと俺を順番に眺めてから、細剣使いはぷるぷると首を振った。 「い……居るわけないわよ、そんな人。今まで、君やわたしがどんだけ激しいレベリングをしてきたか、忘れたわけじゃないでしょう。レベル一〇〇なんて……二十四時間、最前線の迷宮区に篭もり続けたって絶対にムリだわ」 「私もそう思うね」  最強ギルドKoBのナンバー1と2に揃って否定されてしまえば、しがないソロプレイヤーに論理的反駁なぞできようはずもない。  しかし俺は、最後にぶちぶちと諦め悪く言い返した。 「……ぷ、プレイヤーのステータス由来じゃなくて、スキルの強さってセンもあるぜ。例えば、さ……じゃない、二人目の『ユニークスキル』使いが現れた、とかさ」  すると、暗赤色のローブの肩を揺らし、団長どのがかすかに笑った。 「ふ……、もしそんなプレイヤーが存在するなら、私が真っ先にKoBに勧誘しているよ」  そして内面のうかがい知れない目でじいっとこっちを見るものだから、俺はこのセンを引っ張ることを断念し、安物の椅子に背中を預けた。 「うーん、いけると思ったんだけどなぁ。あとは……」  フィールドボスモンスターに頼んで一撃くらわしてもらう、等と頭の悪いアイデアを口にする前に、俺の隣にのそっと立つ人影があった。 「……おまち」  やる気の無い声とともに、NPC店主は四角い盆からドンブリを三つテーブルに移した。油染みのあるコック帽の下に伸びる長い前髪のせいで、顔はさっぱり見えない。  他の層の、清潔で礼儀正しくキビキビしたNPC店員ばかり見慣れているのだろうアスナの唖然とした視線に見送られながら、店主はのそのそとカウンターの向こうに戻っていった。  俺は卓上から安っぽいワリバシを取り、ぱきんと割って、ドンブリを一つ引き寄せた。  同じようにしながら、アスナが低い声で言った。 「……なんなの、この料理? ラーメン?」 「に、似た何か」  答え、俺は薄い色のスープに沈むちぢれメンを引っ張り上げた。  うらぶれた店内に、しばしズルズルという音が三つ、わびしく響いた。  ノレンの外をかさかさと乾いた風が吹きぬけ、表で謎の鳥がクアーと長く鳴いた。  数分後、空になったドンブリをテーブルの端に押しやってから、俺は向かいの男を見やった。 「……で、団長どのは、何か閃いたことはあるかい?」 「…………」  スープまできっちり飲み干し、ドンブリを置いたヒースクリフは、その底の漢字っぽい模様を凝視しながら言った。 「……これはラーメンではない。断じて違う」 「うん、俺もそう思う」 「では、この偽ラーメンぶんだけ答えよう」  顔を上げ、ぱちんとワリバシを置く。 「……現時点の材料だけで、『何が起きたのか』を断定することはできない。だが、これだけは言える。いいかね……この事件で、唯一確かなのは、君らがその目で見、その耳で聞いた一次情報だけだ」 「……? どういう意味だ……?」 「つまり……」  ヒースクリフは、真鍮色の双眸で、並んで座る俺とアスナを順番に見つめ、言った。 「アインクラッドに於いて直接見聞きするものはすべて、コードに置換可能なデジタルデータである、ということだよ。そこに、幻覚幻聴の入り込む余地はない。逆に言えば、デジタルデータでないあらゆる情報には、常に幻、欺瞞である可能性が内包される。この殺人……『圏内事件』を追いかけるのならば、目と耳、つまるところ己の脳が受け取ったデータだけを信じることだ」  ごちそうさまキリト君、と最後に言い添え、ヒースクリフは立ち上がった。  謎めいた剣士の言葉の意味を考えながら、俺も席を立ち、店主に「ごっそさん」と声をかけてノレンを潜った。  前に立つヒースクリフの、「何故こんな店が存在するのだ……」という呟きが、かすかに耳に届いた。  迷路のような街並みに溶けるように団長どのが消えてしまうと、俺は隣に立ち尽くすアスナに向き直り、訊ねた。 「……お前、さっきの、意味わかった?」 「……うん」  頷くので、おおさすが副長、と思う。 「アレだわ。つまり『醤油抜きの東京風しょうゆラーメン』。だからあんなワビシイ味なんだわ」 「へ?」 「決めた。わたしいつか必ず醤油を作ってみせるわ。そうしなきゃ、この不満感は永遠に消えない気がするもの」 「……そう、頑張って……」  うんうん、と頷いてから、そうじゃなくて! と一応つっこむ。 「え? 何、キリトくん?」 「変なもん食わせたのは悪かった、謝る、だから忘れてくれ。それじゃなく、ヒースクリフの奴、なんか禅問答みたいこと言ってただろ。あれの意味」 「ああ……」  アスナは今度こそしっかり頷き、答えた。 「あれはつまり、伝聞の二次情報を鵜呑みにするな、って意味でしょう。この件で言えば、つまり、動機面……ギルド黄金林檎の、レア指輪事件のほうを」 「ええー?」  俺は思わず唸り声を出した。 「ヨルコさんを疑えってのか? そりゃまあ、証拠なんかまるで無い話ではあるけど……さっきアスナも、今更裏づけの取りようもないから、疑っても意味ないって言ってたじゃないか」  するとアスナは、一瞬ぱちくりと俺を見てから、ふいっと顔を背けてこくこく頷いた。 「ま、まあ、それはそうなんだけどね。でも、団長の言うとおり、PK手段を断定するにはまだ材料が足らなすぎるわ。こうなったら、もう一人の関係者にも直接話を聞きましょう。指輪事件のことをいきなりぶつければ、何かぽろっと漏らすかもしれないし」 「へ? 誰?」 「もちろん、きみからあの槍をかっぱらってった人よ」    † 11 †  視界右下端の数字が、ちょうど一四:〇〇を示した。  普段なら、昼飯タイムを終え、迷宮区攻略・午後の部が絶賛開催中の頃合だ。しかし今日はもう街から出る余裕はあるまい。最前線のフィールドを横切り、ダンジョンの未踏破エリアに着く頃には日が暮れてしまう。  俺のほうは、「天気がいいから」という理由だけでサボるような不真面目君なのでどうということもないが、二日連続で攻略を休んでしまうハメになった『閃光』の心中やいかに。  と思いつつ、隣を歩くアスナの様子を横目で探ったが、意外にも日ごろより雰囲気が和らいでいるように思えた。アルゲード裏通りの謎いショップを冷やかしたり、どこに続くのかわからない暗渠を覗き込んだり——俺の視線に気付くや、ぱちぱちと瞬きしてから、ん? という感じで微笑んだりもするではないか。 「どうしたの?」  訊かれ、俺はぷるぷる首を振った。 「い……いえ、なんでもないです」 「変な人ー。今に始まったことじゃないけど」  くすっと笑い、両手を腰の後ろで組み合わせて、ととんとステップを踏むようにブーツの踵を鳴らす。  まったく、変なのはどっちなのだ。これが本当に、昨日ヒルネ中の俺に雷を落とした攻略の鬼と同一人物なのか。あるいは、何だかんだ言って『アルゲードそば』が気に入ったのだろうか。ならば次はぜひあの店で、更なる混沌の味『アルゲード焼き』を試していただきたい。  等と考えているうちに、やっとこ前方から転移門広場の喧騒が近づいてきた。幸い今回は、道案内NPCの世話になることなく戻ってこられたようだ。  俺は妙に落ち着かない気分をむりやり切り替えるため、ひとつ咳払いをした。 「ウホン……さてと、次はシュミット主将に話を聞くわけだけど。考えてみたら、この時間、聖竜も狩りに出てるんじゃないの?」 「んー、それはどうかしらね」  微笑を消したアスナが、華奢なおとがいに指先をあてて答えた。 「ヨルコさんの話を信じれば、シュミット君も『指輪売却派』の一人で……つまり、カインズさんと立場を同じくしているわけよね。本人にもその自覚があるのは、昨日きみの前に現れたときの様子からも明らかでしょう。謎の『レッド』に狙われてる……と思われる状況で、圏内から出るかしら」 「ああ……言われてみれば、そうかもな。でも、その『レッド』は、圏内PK手段を持ってる可能性が高いんだぜ。街に居ても、絶対に安全とは言い切れない」 「だからこそ、せめて最大限の安全を確保しようとするでしょうね。宿屋に閉じこもるか、あるいは……」  そこまで聞いて、俺はようやくアスナの言わんとするところを悟った。指をぱちんと鳴らし、続ける。 「あるいは『篭城』するか、だな。DDAの本部に」  最強ギルドのひとつ聖竜連合が、五十六層に華々しく|ギルド本拠《ホーム》を構えたのはつい先日のことだ。血盟騎士団本部のある五十五層のひとつ上なのは決して偶然ではあるまい。豪勢極まる披露パーティーには、何のお情けか俺も呼ばれたが、ホームよりもキャッスルというべき大仰さには驚き呆れたものだ。せめてものイヤガラセに、クラインやエギルと卓上のご馳走を片っ端から平らげてやったが、過剰な味覚信号が入力されたせいかその後三日も腹部の膨満感に悩まされた。  アルゲードの転移門から移動した俺は、街を見下ろす小高い丘にそびえ建つ忌まわしき飽食の城を睨み、うえっぷとおくびを漏らした。  アスナのほうは特に感慨もないらしく、すたすたと赤レンガの坂道を登っていく。  銀の地に青いドラゴンを染め抜いたギルドフラッグが翻る白亜の尖塔群を見上げながら、俺はしつこくぼやいた。 「しっかし、いくら天下のDDA様と言っても、よくこんな物件買う金があるよなぁ。どうなんすかそのへん、KoBの副長どのとしては」 「まーね、ギルドの人数だけで言えば、DDAはうちの倍はいるからね。それにしたってちょっと腑に落ちない感じはするけど。うちの会計のダイゼンさんは、『えろう高効率のファーミングスポットを何個も抱えてはるんやろなぁ』って言ってた」 「へええ」  ファーミング、というのは、大量のMoBを高回転で狩りつづけることを指すMMO用語だ。俺が去年の冬、とある事情で無茶なレベリングにまい進したときに篭もった『アリ谷』などが代表的なスポットだが、その場所で発生した経験値がある閾を超えると、SAO世界を支配するデジタルの神である『カーディナル・システム』の手によって効率が下方修正されてしまう。  ゆえに、優秀なファーミングスポットは全プレイヤーに公開し、その恩恵が枯れるまで公平に分け合いましょう、というのが攻略組の共通認識であるわけなのだが、DDAはそれに反してスポットをいくつか秘匿しているのではないか——というのがアスナの言の要旨である。  ズルイと言えばズルイが、DDAが強化されれば結果として攻略組総体も強化されるわけで、真っ向正面から糾弾するわけにもいかない。  その先には、最終的に、攻略組という存在そのものにつきまとう自己矛盾が現れてくるからだ。デスゲームからの解放を錦の御旗に、システムが供給するリソースの大部分を独占し、恐るべき先細りのヒエラルキーを維持し続けようとする俺たち全員のエゴが。  そう考えれば、攻略組の対極に存在する組織『アインクラッド解放軍』の主張する、全プレイヤーの獲得リソースの一極徴収・公平分配——という方針も、あながち妄言と一蹴できないのかもしれない。  そう——、仮に『軍』のその主張が実現していれば、恐らくは今回の『圏内事件』も起こらなかったのだ。原因となった指輪は、ドロップした瞬間に徴税され、売却され、利益が数万に分割されて融けて消えたのだろうから。 「まったく……、ほんとに嫌な性格してるよ、このデスゲームを創った奴は……」  なんでよりにもよってMMOなのだ。|R T S《リアルタイムストラテジー》とか、|F P S《ファーストパースンシューティング》とか、もっと公平で、刹那的で、一瞬でカタのつくゲームは山ほどあるというのに。  SAOは、高レベル者のエゴを試している。矮小な優越感と、仲間の——ひいては全プレイヤーの命を天秤にかけることを強制してくる。  指輪事件の犯人は、その我執に呑まれたのだ。  俺にとっては、まったく他人事ではない。レアなマジックアイテムなど比較にならぬほど重大な秘密を、己のステータスウインドウに独占している俺には。  ——と、俺の呟きを聞いたのか、まるで全思考までもトレースしたようにアスナが囁いた。 「だから、この事件はわたし達が解決しなきゃいけないんだよ」  そして、俺の右手を一瞬きゅっと握り、揺るがぬ強さの滲む微笑みを見せると、すぐ目の前に迫った巨大な城門に確かな足取りで歩み寄って行った。    † 12 †  ギルドの本拠地として登録されている建築物の敷地には、基本的に所属メンバーしか立ち入ることはできない。プレイヤーホームと同じ扱いというわけだ。だから本来ならば門番など必要ないのだが、人手に余裕のあるギルドは、警備というより来客の取次ぎのために交代制で人員を配置していることが多い。  聖竜連合もその例に漏れず、麗々しい城門には二人の重装槍戦士が仁王像のように立ちはだかっていた。  門番つうか、RPGの中ボスだよな絶対。などと考え、思わず内心で構えてしまう俺とは異なり、アスナはすたすたと右側の男に近寄るとさらりと挨拶した。 「こんにちは。わたし、血盟騎士団のアスナですけど」  すると、巨躯の戦士は一瞬上体をのけぞらせ、軽い声を出した。 「あっ、ども! ちゅーっす、お疲れっす! どーしたんすかこんなトコまで!」  ぜんぜん仁王様でも中ボスでもなかった。アスナは見事なスマイルを、駆け寄ってきた左の男にも惜しげなくサービスし、用件を切り出した。 「ちょっとお宅のメンバーに用があって寄らせてもらったの。シュミットさんなんだけど、連絡してもらえます?」  すると男たちは顔を見合わせ、片方が首を捻った。 「あの人は今前線の迷宮区じゃないっすかね?」  それに、もう一方が答える。 「あ、でも、朝メシのときに『今日は頭痛がするから休む』みたいなこと言ってたかも。もしかしたら自分の部屋に居るかもしれないから、呼んでみるッスね」  実に協力的でびっくりしてしまう。DDAとKoBはギルド単位では決して仲がいいとは言えないはずだが、個人ではその限りではないのか——あるいは、アスナの魅力パラメータの力か。後者だとしたら、俺は出ていかないほうがよさそうだ。  城門にほど近い木の幹に張り付くようにして軽く隠蔽レベルを上げてみたりしている間に、門番の一人がすばやくメッセージを打ち、送信した。  するとわずか三十秒ほどで返信があったらしく、俺はほっと息をついた。やはりシュミットはこの城に立てこもっているのだ。前線のダンジョンで戦闘中なら、そんな素早いレスポンスはとても出来ない。  文面をちらっと見た門番は、困ったように眉を寄せた。 「やっぱ今日は休みみたいっすけど……でも、なんか、用件を聞けとか言ってるんですけど」  するとアスナは、少し考え、短く答えを口にした。 「じゃあ、『指輪の件でお話が』とだけ伝えてください」  効果は覿面だった。  頭痛で臥せっているはずの男は、物凄いダッシュで城門に駆けつけるや否や、「場所を変えてくれ」とひと言唸ってそのまま丘を降りはじめた。顔を見合わせ、同時に肩をすくめてから、俺とアスナもその後を追った。  のしのし歩くシュミットの格好は、昨日俺から槍を巻き上げていった時と同じ、高級そうなプレートアーマーだった。しかも、その下に薄手のチェインメイルまで重ねている。さすがに両手用ランスまでは背負っていないが、装備重量はたいへんなものだろう。その重さを感じさせずに高速前進していく様は、前衛戦士というよりはアメフトの選手のようだ。  SAOプレイヤーにはごく珍しい体育会系オーラを纏った大男は、坂道を降りきって市街に入ったところでようやく足を止め、がしゃりと鎧を鳴らして振り向きざまに詰問してきた。 「誰から聞いたんだ」 「へ?」  と訊き返しかけてから、「指輪のことを」が省略されているのだと気付き、慎重に答える。 「ギルド『黄金林檎』の元メンバーから」  とたん、逆立つ短髪の下で、太い眉毛がびくりと動いた。 「名前は」  ここで俺はやや迷ったが、仮にシュミットが昨日の事件の犯人ならば、当然カインズがヨルコと一緒にいたことは知っているはずだ。今更名前を伏せる意味はない。 「ヨルコさん」  答えると、大男は一瞬放心したように視線を上向け、次いでふうううっと長く息を吐いた。俺は無表情を保ちながら、素早く考えた。今の反応が見た目どおり『安堵』ならば、それはヨルコが自分と同じ側、つまり『指輪売却派』だったことを知っているからだろう。  やはりシュミットもすでに、昨日の事件の構図が、グリムロックを含む『売却反対派』の誰かによる『売却派』への復讐であるという可能性に辿り着いているのだ。だからこそ、仮病で狩りを休み安全なギルド本部に立てこもっていた。  現時点では、シュミットがカインズ殺害の犯人であるという線はかなり薄くなってきているが、それでも動機がないわけではない。例えば指輪事件の犯人はカインズとシュミットで、口封じのために一方が一方を殺した可能性は残る。そう考えつつ、俺は直球な質問を放った。 「シュミットさん。昨日あんたが持っていった槍を作ったグリムロック氏、今どこにいるか知ってるか?」 「し……知らん!!」  叫びながら、シュミットは激しく首を振った。 「ギルド解散以来いちども連絡してないからな。生きてるかどうかも知らなかったんだ!」  早口で言いながらも、視線が街並みのあちこちを彷徨う。まるで、どこからか槍が飛んでくるのを怖れるように。  と、ここで今まで黙っていたアスナが、穏やかな声で話しかけた。 「あのね、シュミットさん。わたし達は、黄金林檎のリーダーさんを殺した犯人を捜してるわけじゃないの。昨日の事件を起こした人を……もっと言えば、その手口をつきとめたいだけなのよ。『圏内』の安全を今までどおりに保つために」  わずかな間を取り、いっそうの真剣味を加えて続ける。 「……残念だけど、現状でいちばん疑わしいのは、あの槍を鍛えた……そしてギルドリーダーさんの旦那さんでもあったグリムロックさんです。もちろん、誰かがそう見せかけようとしている可能性もあるけど、それを判断するためにも、どうしてもグリムロックさんに直接話を聞きたいの。今の居所か、あるいは連絡方法に心当たりがあったら、教えてくれませんか?」  大きなヘイゼルの瞳で凝と見詰められ、シュミットは僅かに上体を引いた。  そのままぷいっと横を向き、口元をかたくなに引き結んでしまう。アスナの正面攻撃も効かないとは、これは一筋縄ではいかないかと俺はため息を飲み込んだ。しかし、直後。 「…………居所は本当にわからない。でも」  ぼそぼそとシュミットは話しはじめた。 「当時、グリムロックが異常に気に入ってたNPCレストランがある。ほとんど日に一度は行ってたから、もしかしたら今でも……」 「ほ、ほんとか」  俺は身を乗り出しながら、同時に考えた。  アインクラッドでは、食べることがほとんど唯一の快楽と言っていい。そして同時に、廉価なNPC料理で好みの味が見つかることはかなり稀だ。俺とても、日々の食事はわずか三軒のレストランをローテーションしているのだ。  毎日行くほど気に入った店なら、ずっと断ちつづけることはなかなかに難しいはずだ。 「なら、その店の名前を……」 「条件がある」  言いかけた俺の言葉を、シュミットが半ばで遮った。 「教えてもいいが、一つだけ条件がある。……彼女に、ヨルコに会わせてくれ」  シュミットを手近な道具屋で待たせ、俺とアスナは出された条件について手短に話し合った。 「危険は……ないわよね? あるのかしら?」 「う、うーん……」  アスナに問われ、しかし俺も即座には判断ができずにしばし唸った。  仮にシュミットが、あるいはほとんど有り得ないだろうがヨルコが昨日の圏内殺人の犯人だったとすると、どちらの場合も一方がもう一方を次の標的にしている可能性は高い。引き合わせたその場で謎の『圏内PK技』が炸裂し、新たな死者が出てしまうという展開だって絶対にないとは言えない。  ただ、その場合も、武器を装備してソードスキルを発動させる手順は絶対に必要になるはずだ。そしてイクイップ操作には、ウインドウを開いて装備フィギュアをいじりOKボタンを押すだけの、最低でも四、五秒はどうしても要求される。 「…………俺たちが目を離さなければ、PKのチャンスは無いはずだ。でも、それが目的じゃないとすると、そもそもシュミットの奴なんで今更ヨルコさんに会わせろなんて言い出すんだ」  両手を軽く広げてみせると、アスナも大きく首を傾げる。 「さあ……実は片想いしてた、とかじゃ……ないわよね、うん」 「えっ、マジで」  俺は思わず、朴訥そうと言えなくもない外見のシュミット氏を振り向こうとしたが、アスナにコートの襟を引っ張られ制止されてしまった。 「違うって言ってるでしょ! ……ともかく、危険がないならあとはヨルコさん次第だわ。メッセージ飛ばして確認してみる」 「は、はい、お願いします」  アスナはウインドウを開くや、猛烈な速度でホロキーボードをタイプした。この『インスタント・メッセージ』は即時に連絡が取れる便利な機能だが、たとえ相手の名前が判っていても、フレンド登録しているか同じギルドのメンバーか、あるいは結婚していないと利用できない。よってグリムロック氏への連絡には使えないわけだ。  ほんの一分足らずで返信があったらしく、アスナは開いたウインドウを一瞥するや頷いた。 「OKだって。じゃあ……ちょっと不安だけど、案内しましょう。場所はヨルコさんが泊まってる宿屋でいいわよね」 「うん。彼女を外に出すのはまだ危険だからな」  同意してから、俺は今度こそ背後の道具屋で待っているシュミットに向き直った。頷きかけると、重武装の大男は、あからさまにほっとした顔になった。  三人で五十七層主街区マーテンの転移門から出たときには、街はすでに夕景に包まれていた。  広場にはNPCや商人プレイヤーの屋台が立ち並び、賑やかな売り声を響かせている。その間を、一日の疲れを癒しにきた剣士たちが三々五々連れ立って歩いているが、広場のとある場所だけが、ぽかりと空疎な間隙を作っていた。  小さな教会に面した一画。言うまでもなく、昨日カインズという名の男が謎の惨死を遂げた場所だ。俺はどうしても吸い寄せられそうになる視線を無理やり前方に固定し、アスナとシュミットの前後を挟む並びで歩き始めた。  数分で目指す宿屋に到着し、二階へとのぼる。長い廊下の一番奥が、ヨルコが滞在——あるいは保護されている部屋だ。  ドアをノックし、キリトです、と名乗る。  すぐに細い声でいらえがあり、俺はノブを回した。『フレンドのみ開錠可』設定のドアロックが、かちんと軽い音を立てて解除される。  引きあけたドアの正面、部屋の中央に向かい合わせに置かれたソファの一方に、ヨルコが腰掛けていた。す、と立ち上がり、ウェーブのかかる髪を揺らして軽く一礼する。  俺はその場から動かずに、ヨルコの張り詰めた表情、そして背後のシュミットの同じく強張った顔を順番に見て、言った。 「ええと……まず、安全のために確認しておくけど、二人とも武器は装備しないこと、そしてウインドウを開かないことを守ってほしい。不快だろうけど、宜しく頼む」 「……はい」 「わかっている」  ヨルコの消え入りそうな声、シュミットの苛立ちの滲む声が同時に応じた。俺はゆっくり中に足を踏み入れ、シュミットを導きいれた。  随分と久しぶりに対面するはずの、元『黄金林檎』メンバー同士の二人は、しばし無言のまま視線を見交わしていた。  かつてはギルメンだったヨルコとシュミットだが、今となってはそのレベル差は二十を超えているだろう。しかし俺の目には、シュミットのほうが余計に緊張しているように見えた。  事実、先に口を開いたのはヨルコだった。 「……久しぶり、シュミット」  そして薄く微笑む。対するシュミットは、一度ぎゅっと唇を噛み、かすれた声で答えた。 「……ああ。もう二度と会わないだろうと思ってたけどな。座っていいか」  ヨルコが頷くと、フルプレートアーマーをがしゃがしゃ鳴らしながらソファーに歩み寄り、向かい側に座った。さぞかし窮屈だろうと思うが、除装する様子はない。  俺はアスナとちらりと目を見交わすと、ドアを閉めてロックされたことを確認し、向き合って座るヨルコとシュミットの東側に立った。反対側にはアスナが立つ。  数日間の缶詰を強いられるヨルコのためにいちばん高い部屋を借りたので、四人が環になってもまだ周囲は広々としていた。ドアは北側の壁にあり、西には寝室へと続くもう一つのドア、東と南は大きな窓になっている。  南の窓は開け放たれ、春の残照を含んだ風がそよそよと吹き込んでカーテンを揺らしていた。もちろん窓もシステム的に保護されており、誰かが侵入してくることは絶対にない。周囲の建物よりやや高台になっているので、白いカーテンのあいだから、濃い紫色に沈む街並みが遠くまで見渡せる。  風に乗って届いてくる街の喧騒を、ぽつりと発せられたヨルコの声が遮った。 「シュミット、いまは聖竜連合にいるんだってね。すごいね、攻略組のなかでもトップギルドだよね」  素直な賛辞と思えたが、シュミットは眉間のあたりにいっそうの険しさを漂わせ、低く答えた。 「どういう意味だ。不自然だ、とでも言いたいのか」  とげとげしいにも程がある返しに俺は目を剥いたが、ヨルコは動じなかった。 「まさか。ギルドが解散したあと、凄く頑張ったんだろうなって思っただけよ。私やカインズはくじけて上にのぼるのを諦めちゃったのに、偉いよね」  肩にかかる濃紺の髪をそっと払い、微笑む。  フルプレ装備のシュミットとは比較にならないが、今夜はヨルコも相当に着込んでいた。厚手のワンピースに革のダブレットを重ね、さらにベルベットのチュニックを羽織って肩にはショールまで掛けている。金属防具は無くとも、これだけ着込めば相当の防御力が加算されているはずだ。表面上は平静でも、やはり彼女も不安なのだろうか。  こちらは緊張を隠そうともしないシュミットが、がちゃっと鎧を鳴らして身を乗り出した。 「オレのことはどうでもいい! それより……、訊きたいのはカインズのことだ」  トーンを押し殺したものに変え、続ける。 「何で今更カインズが殺されるんだ!? あいつが……指輪を奪ったのか? GAのリーダーを殺したのはあいつだったのか!?」  GA、というのがGolden Apple、つまり黄金林檎の略称であることはすぐに解った。しかし、今の台詞は、シュミットが指輪事件および圏内殺人双方と無関係だと宣言したに等しい。これが演技だとしたら大したものだ。  低い叫びを聞いたヨルコの表情が、初めて変わった。微笑を消し、正面からシュミットを睨みつける。 「そんな訳ない。私もカインズも、リーダーのことは物凄く尊敬してたわ。指輪の売却に反対したのは、コルに変えてみんなで無駄遣いしちゃうよりも、ギルドの戦力として有効利用すべきだと思ったからよ。ほんとはリーダーだってそうしたかったはずだわ」 「それは……、オレだってそうだったさ。忘れるな、オレも売却には反対したんだ。だいたい……指輪を奪う動機があるのは、反対派だけじゃない。売却派の、つまりコルが欲しかった奴らの中にこそ、売り上げを独占したいと思った奴がいたのかもしれないじゃないか!」  がつっ、とガントレットを嵌めた右手で自分の膝を叩き、頭を抱え込む。 「なのに……、グリムロックはどうして今更カインズを……。反対派を全員殺す気なのか? オレやお前も狙われてるのか!?」  ——演技、にはどうしても見えなかった。歯を食いしばるシュミットの横顔には、明確な恐怖が刻まれているように、俺には思えた。  怯えるシュミットに対して、再び平静さを取り戻したヨルコが、ぽつりと言葉を投げかけた。 「まだ、グリムロックがカインズを殺したと決まったわけじゃないわ。彼に槍を作ってもらった他のメンバーの仕業かもしれないし、もしかしたら……」  虚ろな視線を、ソファの前に置かれた低いテーブルに落とし、呟く。 「リーダー自身の復讐なのかもしれないじゃない? 圏内で人を殺すなんて、普通のプレイヤーにできるわけないんだし」 「な…………」  ぱくぱくと口を動かし、シュミットは喘いだ。これには俺も、少しばかりぞっとさせられたことを否定できない。  シュミットは微笑むヨルコを呆然と見やり、言った。 「だって、お前さっき、カインズが指輪を奪ったわけがないって……」  すぐには答えず、ヨルコは音もなく立ち上がると、一歩右に動いた。  両手を腰の後ろで握ると、南の窓に向かってゆっくり後ろ向きに歩いていく。スリッパが立てる音にあわせて、細かく切られた言葉が流れる。 「私、ゆうべ、寝ないで考えた。結局のところ、リーダーを殺したのは、ギルメンの誰かであると同時に、メンバー全員でもあるのよ。あの指輪がドロップしたとき、投票なんかしないで、リーダーの指示に任せればよかったんだわ。ううん、いっそリーダーに装備してもらえばよかったのよ。剣士として一番実力があったのはリーダーだし、指輪の能力を一番活かせたのも彼女だわ。なのに、私たちはみんな自分の欲を捨てられずに、誰もそれを言い出さなかった。いつかGAを攻略組に、なんて口で言いながら、ほんとはギルドじゃなくて自分を強くしたいだけだったのよ」  長い言葉が途切れると同時に、ヨルコの腰が南の窓枠に当たった。  そのままそこに腰掛けるようにしながら、ヨルコはもうひと言だけ付け加えた。 「ただ一人、グリムロックさんだけはリーダーに任せると言ったわ。だからあの人には、多分私たち全員に復讐する権利があるんだわ。そしてもちろん、リーダー本人にも」  しん、と落ちた沈黙のなか、冷たい夕暮れの風がかすかに部屋の空気を揺らした。  やがて、かちゃかちゃかちゃ、と小さく鳴り響いたのは、細かく震えるシュミットの体を覆う金属鎧だった。歴戦のトッププレイヤーは、蒼白になった顔を俯け、うわごとのように呟いた。 「…………冗談じゃない。冗談じゃないぞ。今更……半年も経ってから、何を今更なんだよ……」  がばっ、と上体を持ち上げ、突然叫ぶ。 「お前はそれでいいのかよ! 今まで頑張って生き抜いてきたのに、こんな、わけもわからない方法で殺されていいのか!?」  シュミットと、俺、そしてアスナの視線が窓際のヨルコへと集まった。  どこか儚げな雰囲気をまとう女性プレイヤーは、視線を宙に彷徨わせながら、しばらく言葉を探すようだった。  やがてその唇が動き、何かを言おうとした——  その瞬間。  とん、という乾いた音が部屋に響いた。同時に、ヨルコの目と口が、ぽかんと見開かれた。  続いて、細い体がふらっと揺れた。がく、という感じで一歩踏み出し、くるっと振り返って窓枠に手をつく。  その時、一際強く風が吹き、ヨルコの背中に垂れる髪を流した。  俺はそこに、信じがたいものを見た。  真っ白い起毛のショール。その中央に、小さな黒い棒のようなものがくっついている。  それはあまりにもちっぽけで、瞬間、いったい何なのかわからなかった。だが、その棒を包み込むように明滅する赤い光を認識した途端、俺は戦慄した。  あれは、スローイングダガーの柄だ。そして刀身は、丸ごとヨルコの体に埋まっている。  いずこからか飛来した武器に貫かれ、頼りなく揺れる体が、ぐらっと窓の奥へと傾いた。 「あっ……!」  アスナが悲鳴じみた喘ぎを漏らした。同時に俺は飛び出していた。  手を伸ばし、ヨルコの体を引き戻そうとする。だが。  ショールの端にわずかに指先が掠っただけで、ヨルコは音もなく外側へと落下していった。 「ヨルコ!!」  身を乗り出し、叫ぶ俺の目の前で。  眼下の石畳に墜落し、バウンドしたヨルコの体を、青い光が包んだ。  ぱしゃっ、という、あまりにもささやかな破砕音。ポリゴンの欠片が、炸裂したブルーの光に吹き散らされるようにして拡散し——。  一秒後、乾いた音を立てて、漆黒のダガーだけが路上に転がった。  有り得ない!!  何重もの意味で、俺の脳内に無音の絶叫が響いた。  部屋の中はシステム的に保護されているのだ。たとえ窓が開いていようとも、その内部に侵入することは勿論、何かを投げ込むことも絶対に不可能だ。  さらに、あんな小型のスローイングダガーでは、たとえ貫通継続ダメージが発生していたにせよヨルコのHPすべてを吹き飛ばすことなど絶対にできない。しかも、ダガーが刺さってからヨルコが落下して消滅するまで、どう長く見積もっても五秒と経過していなかった。  絶対に有り得ない。これはもう、『圏内PK』などという呼び方では収まらない、恐るべき即死攻撃だ。  息が詰まり、背筋に極低温の戦慄が駆け巡るのを感じながら、俺はぐいっと顔を上げ、見開いた両眼での外の街並みをカメラのように切り取った。  そして、それを見た。  二ブロックほども離れているだろう、同じくらいの高さの建物の屋根。  深い紫色の残照を背景に、ひっそりと立つ黒衣の姿を。  漆黒のフーデッドローブに包まれ、顔は見えなかった。脳裏に閃く、死神、という単語を押しのけて俺は叫んだ。 「野郎っ……!!」  そして窓枠に右足を掛け、背後を見ずにもう一声—— 「アスナ、後頼む!!」  叫び、通りを隔てた向かいの建物の屋根へと一気に跳んだ。    † 13 †  しかし、いかに敏捷力補正があるとは言え道幅五メートルを助走なしに飛び越えようとしたのはやや無謀だったようで、俺は足から着地はできずに、いっぱいに伸ばした右手で目指す屋根の縁を危うく掴んだ。  今度は筋力補正を発揮して、倒立の要領で体を放り上げる。くるっと反転して立ち上がると同時に、後ろからアスナの切迫した声が届いた。 「キリトくん、だめよ!」  制止の理由は明白だった。もしあのスローイングダガーによる攻撃を被弾すれば、俺も即死してしまうかもしれないからだ。  しかし、ここで身の安全を優先して、ついにその姿を現した殺人犯を見逃すことなどどうしてもできなかった。  ヨルコの保護を請け負ったのは俺だ。しかし、システム的に保護された宿屋に閉じこもっていれば絶対に危険はないと短絡的に考え、その先を想像しなかった。システム的保護、というならばそもそも街中——圏内すべてがそうであるはずなのだ。圏内でPKを行える相手ならば、宿屋の保護すらも無効化できる可能性があると、なぜ考えなかったのか。  俺の悔恨をあざ笑うかのように、彼方の屋根の上で、黒ローブの人影がくるりと身を翻した。 「待てっ……!」  叫び、俺は猛然と走りはじめた。同時に背中の剣を引き抜く。もちろん俺の剣では奴にダメージを与えられないだろうが、投げられたダガーを弾くことならできるはずだ。  助走の勢いを殺さぬよう、屋根から屋根へと思い切り良く飛び移っていく。足下の道を行き交うプレイヤーたちは、俺を敏捷力自慢の痛いパフォーマーだと思っているだろうが、今は構っていられない。コートの裾をなびかせ、夕闇を切り裂くようにジャンプを続ける。  フーデッドローブの何者かは、逃げる様子もなく悠然と立ち、急接近する俺を眺めている。と——。  不意に殺人者の右手が動き、ローブの懐へと差し込まれた。俺は息を詰め、剣を正面に構えた。  しかし。  引き出された手に握られていたのは、スローイングダガーではなかった。宵闇の底でも、鋭いブルーの煌きが俺の目を射た。転移結晶。 「くそっ」  俺は毒づき、疾駆しながら左手で腰のピックを三本同時に抜いた。振りかぶり、一息に投擲する。ダメージが目的ではなく、反射的な回避動作を取らせてコマンド詠唱を遅らせる狙いだ。  だが相手は落ち着いていた。銀のライトエフェクトを引いて襲い掛かる三本の鋼針を怖れる様子もなく結晶を掲げる。  フーデッドローブの寸前で、ピックたちは全て紫色の障壁に阻まれ、空しく屋根に転がった。俺はせめて、相手の音声コマンドを聞き取ろうと耳を澄ませた。行き先が判れば、俺も結晶で追跡することができる。  目論みは、しかし今度もまた裏切られた。直後、マーテンの街全体に、大ボリュームの鐘の音が響き渡ったのだ。  俺の耳——正確には聴覚野は、午後六時を告げるシステムサウンドに大部分占領されて、殺人者が最低限のボリュームで発声したコマンドを捉えることができなかった。青いテレポート光が迸り、あと通り一つを隔てたところまで肉薄した俺の視界から、不吉なフーデッドローブ姿が呆気なく消え去った。 「…………っっ!!」  俺は声にならぬ叫びを上げ、右手の剣を、寸前まで奴が立っていた場所へと叩きつけた。紫の光が飛び散り、視界の中央に、【Immortal Object】のシステムタグがささやかに表示された。  屋根ではなく道を使って悄然と宿屋まで戻った俺は、ヨルコの落下した窓の下で立ち止まり、そこに転がっている漆黒のスローイングダガーを眺めた。  つい数分前、そこで一人の女性が死んだ——消滅したことが、どうしても信じられない。俺にとって、プレイヤーの死というのは、あらゆる努力、あらゆる回避策を積み重ねてなお及ばぬときにのみ訪れる悲劇だった。あんなふうに即時的かつ不可避の殺人手段など存在していいはずがない。  身をかがめ、ダガーを拾い上げる。小型だが、全体が同一の金属素材でずしりと重い。剃刀のように極薄の刃には、鋸に似た逆歯がびっしりと刻まれている。間違いなく、カインズを殺したショートスピアと同じ意匠で造られたものだ。  仮に今、これを俺の体に刺せば、俺のHPも急減少するのだろうか。ふと実験してみたいという衝動に駆られるが、ぎゅっと瞼をつぶってそれを払い落とし、俺は宿屋に入った。  二階に上り、ノックして名乗ったあとノブを回す。ガチンと響くシステム的開錠音を空しく聞きながら、ドアを開ける。  アスナはレイピアを抜剣していた。俺を見るや、憤激と安堵が同量ずつ混ざったような表情を浮かべ、押し殺した声で叫んだ。 「ばかっ、無茶しないでよ!」  ふう、と長く息を吐き、続ける。 「……どうなったの?」  俺は小さく首を振った。 「だめだ、テレポートで逃げられた。顔も声も、男か女かも判らなかった。まあ……あれがグリムロックなら、男だろうけど……」  SAOでは同性婚は不可能だ。黄金林檎のリーダーが女性だったなら、結婚していたというグリムロックは自動的に男だということになる。もっとも、それは絞込みフィルタとしては使えない情報だ。SAOプレイヤーの、実に八割近くが男なのだから。  さして意味を持たない俺の言葉に——。  不意の反応を見せたのは、ソファーの上で大きな体を限界まで丸め、かちゃかちゃと金属音を響かせていたシュミットだった。 「……ちがう」 「違うって……なにが?」  訊ねたアスナを見ることなく、いっそう深く顔を俯けながら、シュミットは呻いた。 「違うんだ。あれは……屋根の上にいたローブは、グリムロックじゃない。グリムはあんなに背が高くない。それに……それに」  続いて発せられた言葉に、俺も、アスナも息を呑んだ。 「あのフードつきローブは、GAのリーダーのものだ。彼女は、街に行くときはいつもあんな格好をしていた。そうだ……指輪を売りにいくときだって、あれを着ていたんだ! あれは……さっきのあれは、彼女だ。俺たち全員に復讐に来たんだ。あれはリーダーの幽霊だ」  はは、はははは、と不意にタガが外れたような笑い声を漏らす。 「幽霊ならなんでもアリだ。圏内でPKするくらい楽勝だよな。いっそリーダーにSAOのラスボスを倒してもらえばいいんだ。最初からHPが無きゃもう死なないんだから」  ははははは、とヒステリックに笑い続けるシュミットの目の前のテーブルに、俺は左手に握ったままのものを放り投げた。  ごとん、と鈍い音が響くや、シュミットはぴたりと笑いを止めた。凶悪に光る鋸歯状の刃を、数秒見詰め——。 「ひっ…………」  弾かれたように上体を仰け反らせる大男に、俺は抑えた声を投げかけた。 「幽霊じゃないよ。そのダガーは実在するオブジェクトだ。SAOサーバに書き込まれた、ただのコードの塊だ。あんたのストレージに入ったままのショートスピアと同じく。信じられなきゃ、それも持っていくといい」 「い、いらない! 槍も返す!!」  シュミットは絶叫し、ウインドウを開くや、震える指先を何度もミスらせながら操作して黒いスピアをオブジェクト化させた。窓の上に浮かびあがった武器を、払い落とすようにダガーの隣に転がす。  そしてまた頭を抱えてしまう男に、アスナが穏やかな声をかけた。 「……シュミットさん。わたしも、幽霊なんかじゃないと思うわ。だって、もしアインクラッドに幽霊が出るなら、黄金林檎のリーダーさん一人だけのはずがないもの。今まで死んだ一万五千人みんなが無念だったはずだわ。そうでしょう?」  まったくそのとおりだ、と俺も思った。俺だって、ここで死んだら口惜しさのあまり化けて出る自信がある。運命なりと受け入れて成仏できそうな人間は、俺の知るかぎりKoBリーダーのあんにゃろうくらいのものだ。  だが、シュミットは、項垂れたまま今度も首を左右に動かした。 「あんたらは……彼女を知らないだろ。あの人には……なんか、そんなところがあったんだよ。すげえ強くて、いつも公正だったけど……オレは、オレは彼女が……グリセルダが笑ったところを見たことがない」  しん、と重苦しい沈黙が広い部屋を満たした。  開け放たれた窓の外はいつのまにかすっかり日が沈み、オレンジ色の街明かりが幾つも灯って、その下は一夜の憩いを求めるプレイヤーたちで賑わっているはずだが、その喧騒も不思議にこの部屋を避けているようだった。  俺は大きく息を吸い、無理やりに静寂を破った。 「……あんたがそう信じるなら、好きにすればいいさ。でも俺は信じない。この二軒の圏内殺人には、絶対にシステム的な裏打ちがあるはずだ。俺はそれを突き止めてみせる。……あんたにも、約束どおり協力してもらうぞ」 「きょ、協力……?」 「グリムロックの行きつけの店を教えるって、あんた言ったよな。今となっては、それだけが唯一の手がかりだ。何日張り込むことになっても、絶対に見つけだす」  正直、グリムロックという名のプレイヤーを探し当てたところで、その先のプランがあるわけではない。『軍』ではあるまいし、監禁して締め上げるような真似ができるはずはないからだ。  だが、殺される寸前のヨルコの言葉どおりに、グリムロックが指輪売却派の三人、あるいは元ギルメンの全員の殺害を狙っているのなら、これからも動き続けるはずだ。悟られずに監視を続け、次の圏内PKを実行しようとする瞬間を押さえる——、今思いつける手はそれくらいしかない。  シュミットは再び項垂れたが、やがてかすかな動作で頷いた。ふらりと立ち上がり、壁際のライティングデスクに歩み寄ると、備え付けの羊皮紙と羽ペンを取り、何かを書きつける。  その背中に、俺はふと思いつき、声をかけた。 「あ、ついでに、元黄金林檎のメンバー全員の名前も書いておいてくれるか。あとでもう一度、『生命の碑』で生存者を確認しにいくから」  うっそりと頷き、巨漢は置きかけたペンを握りなおすと更にしばらく走らせた。  やがて、書きあがった羊皮紙を片手に戻ってくると、それを差し出す前に言った。 「…………攻略組プレイヤーとして情けないが……オレはしばらくフィールドには出ない。ボス攻略パーティーは、オレ抜きで編成してくれ。それと……」  長い逡巡のあと、かつての剛毅さがすっかり抜け落ちた虚ろな表情で、ギルド聖竜連合のリーダー職を務めるランス使いは呟いた。 「これから、オレをDDAの本部まで送ってくれ」    † 14 †  シュミットを臆病と笑うことなど、俺にも、アスナにもできなかった。  怯えきった巨漢をあいだに挟み、五十六層転移門から聖竜の本部まで歩く間、俺もアスナも周囲の暗闇にひたすら視線を走らせていたからだ。もし似たようなフード付きローブを着込んだ無関係の他人が突然現れたら、反射的に飛びかかっていたかもしれない。  本部の巨大な城門をくぐっても、シュミットはまるで安堵の顔は見せなかった。小走りに建物へと飛び込んでいく背中を見送って、俺はふう、と息をついた。  傍らのアスナと、しばし互いに顔を見合わせる。 「…………悔しいね……ヨルコさんのこと…………」  やがてそう呟き、唇を噛むアスナに、俺は「そうだな」と掠れた声で応じた。  身勝手とわかってはいるが、ヨルコの死は、カインズのそれに数倍する衝撃を俺にもたらした。窓から落下していく彼女の姿を脳裏に思い描きながら、続けて言う。 「今までは正直、乗りかかった船、みたいな気持ちもあったけど……もう、そんなこと思ってちゃだめだよな。彼女のためにも、なんとしてもこの事件を解決しないと。——俺はこれからすぐ、問題のレストランの近くに張り込む。君はどうする?」  語尾が消えないうちに、さっと顔を上げたアスナが、しっかりした声で答えた。 「どうする、なんて訊かないでよ。行くわ、もちろん。一緒に、最後まで突き止める」 「……そっか。じゃあ、よろしく頼む」  正直、アスナを今後も付き合わせることにわずかな迷いはあった。俺たちが当事者として事件に関わり続ければ、いつグリムロックの新たな標的として狙われても不思議はないからだ。  しかしそんな俺の逡巡を断ち切るように、アスナは勢いよく踵を返すと、転移門広場目指して歩きはじめた。俺は冷たい夜気を大きく吸い込み、一気に吐き出してから、足早に彼女のあとを追った。  カインズのメモに記されていた店は、二十層主街区の下町にある小さな酒場だった。曲がりくねる小路にひっそりと看板を揚げている佇まいからは、『毎日食べても飽きない』級の料理が出てくるとはなかなか思えない。  しかし、こういう店に隠れ名物があるのもまた事実であり、俺は店内に突進してメニューを片っ端から試してみたいという欲求を抑えるのに少々苦労した。もしグリムロックがあのフーデッドローブの殺人者ならばすでにこちらの顔を見ているわけであり、先に気付かれたら二度とこの店には現れるまい。  近くの建物の角に身を潜め、周囲の地形を確認した俺は、幸い店の入り口を見通せる位置に宿屋が一軒あるのに気付いた。人通りが途切れた瞬間を狙って宿屋に飛び込み、通りに面した二階の部屋を借りる。  狙いどおり、窓からは問題の酒場の入り口がはっきり視認できた。部屋の明かりを落としたまま窓際に椅子を二脚運び、俺とアスナは並んで腰を下ろすと監視態勢に入った。  しかし直後、アスナが「ねえ」と眉を寄せた。 「……張り込みはいいけど、わたし達、グリムロックさんの顔知らないよね」 「ああ。だから最初はシュミットも連れてこようと思ってたけど、あの様子じゃちょっと無理そうだったからな……。俺はいちおう、さっきローブ越しとはいえグリムロックとおぼしきプレイヤーをかなりの近距離から見てる。身長体格で見当をつけて、ピンと来る奴が現れたら、ちょっと無茶だけどデュエル申請で確認する」 「えーっ」  アスナが目を丸くして上体を引いた。  SAOでは、他のプレイヤーに視線をフォーカスさせると、黄色あるいはオレンジのカーソルが出現する。しかし、フレンドやギルメンでない限りカーソルには相手のHPバーしか表示されず、名前もレベルも判らない。  これは安易な犯罪行為を防ぐための当然の仕様なのだが、今回のように人を探そうとすると少なからぬ苦労を強いられることとなる。他人の名前を確実に知ろうと思ったら方法はたった二つ、トレードを申し込んで受諾されるか、あるいは圏内デュエルを申請するしかない。仮にグリムロックらしき男を見つけたとして、突然トレードを申請してもOKされるわけがないので、あとは強引にもほどがあるがいきなりデュエルを申し込むしかないのだ。これなら、相手が受諾しようとしまいと、挑戦した時点で俺の視界に『誰それに1vs1デュエルを申請しました』というシステムメッセージが出現する。  無論ノーマナー行為もいいところだが、今回ばかりは致し方ない。それを相手が受諾し、武器を抜けば——まあ、そのときはそのときだ。  一瞬驚いた顔を見せたアスナも、すぐに他に方法がないことを理解したのだろう。不承不承という様子ながら頷いた。 「……でも、わたしも一緒に行くからね」  続けてきっぱりと宣言されてしまえば、部屋で待っててという言葉を飲み込むしかない。  今度は俺が躊躇いながら頷き、ついでに時刻を確認する。午後六時四十分、そろそろ街が晩飯を食いにきたプレイヤーで賑わいはじめる頃だ。問題の酒場も、地味な店構えのわりにスイングドアが頻繁に揺れている。しかしまだ、目の裏に焼きついたあのフーデッドローブ姿に合致する体格のプレイヤーは現れない。  あんなに客が入るってことは、やっぱり隠れ名店なのかなあ。気になるなあ。  などと考えたとたん、強烈な空腹を覚えて俺は胃を押さえた。その途端、目の前にずいっと突き出されてきたものがあった。視線を通りに落としたまま白い紙包みを差し出すアスナは、唇を尖らせ、「ほら」と短く言った。 「へ……く、くれるの?」 「この状況でそれ以外何があるのよ。見せびらかしてるとでも?」 「い、いえ。すいません、もらいます」  首を縮め、紙包みを受け取る。ちらっと視線を振ると、アスナも同じものをオブジェクト化させ、ウインドウを消している。  おそるおそる紙を剥がすと、出てきたのは大ぶりのバゲットサンドだった。かりっと焼けたパンのあいだに、野菜やロースト肉がたっぷり挟まれたそれをほけーっと眺めていると、またアスナが冷ややかな声で言った。 「そろそろ耐久値が切れて消滅しちゃうから、急いで食べたほうがいいわよ」 「えっ、はっ、はい、頂きます!」  消えると聞いては呆けている時間はない。あれこれ考えることは後回しにして、俺はあんぐりと大口を開けてかぶりつき、パリザクモニュという歯ごたえにしばし浸った。味付けもシンプルながら適度に刺激的で、次々頬張ってしまう。アイテムとしての耐久値は味には関係ないので、存在している限りは出来立てと何ら変わることはない。  視線を酒場の入り口に固定しながらも、大型のバゲットを一気に貪り尽くし、俺はふうーと満足のため息をついた。ちらっと横目でまだ上品に口を動かしているアスナを見やり、訊ねる。 「とってもご馳走様。それにしても、いつの間に弁当なんて仕入れてたんだ? 通りの屋台じゃ、こんな立派な料理売ってないよな?」 「耐久値がもう切れるって言ったでしょ。こういうこともあるかと思って、朝から用意しといたの」 「へえ……さすが攻略担当責任者様だなあ。メシのことなんてまったく考えてなかったよ。……ちなみに、どこの店の?」  私的名店リストのかなり上位に食い込む味だったので、しばらくはこれを攻略のお供にしようと思って俺はさらに質問した。しかしアスナは小さく肩をすくめ、予想外の答えを返した。 「売ってない」 「へ?」 「お店のじゃない」  何故かそこで押し黙り、それ以上何も言いそうにないので、俺はしばし首を捻ったあげくようやく悟った。店にて購った物に非ず、つまり自作アイテム也、とKoBサブリーダー様はのたまったのだ。  俺はたっぷり十秒ほど放心した挙句、やばい何か言わなきゃ、と軽めのパニックに見舞われた。朝方の、アスナのおめかしを全力スルーしてしまうという失態を二度繰り返すわけにはいかない。 「え……ええと、その、それは何といいますか……が、がつがつ食べちゃって勿体なかったなあ。あっそうだ、いっそのことアルゲードの市場でオークションにかければ大儲けだったのになあハハハ」  ガツン! とアスナの白革のブーツに椅子の脚を蹴り飛ばされ、俺は震え上がって背筋を伸ばしながら、またしても間違ってしまったことを悟った。  凄まじい緊張に満ちた数分間が過ぎ去り、自分も食事を終えたアスナがぽつりと呟いた。 「…………来ないね」 「えっ、う、うん。まあシュミットの話じゃ毎晩通ってるってわけでもなさそうだったからな。それにあの黒フードがグリムロックなら、PK行為のすぐあとにメシ食う気にもなかなかならないだろうし……二、三日は覚悟したほうがいいな」  早口でまくし立てながら、俺はもう一度時間を確かめた。張り込みを始めてからまだ三十分しか経っていない。俺はもう、グリムロックを見つけるまでは何時まで、何日かかってもこの部屋に篭もる覚悟だったが、副団長閣下はどうするつもりなのだろう。  と考えながらもう一度だけ視線を振ったが、アスナは深く椅子に腰掛け、立ち上がる気配もなかった。  あれっ、もしかして俺のさっきのセリフ、『二、三日ここに泊まろう』って意味になり得る? と今更思いつき、手に汗握りかけた途端、アスナがぽつりと声を発した。 「ねえ、キリト君」 「はっ……はい!」  しかし続けて発せられた言葉は、幸い——あるいは残念ながらまったく無関係の内容だった。 「君ならどうしてた? もし君が黄金林檎のメンバーだったら、超級レアアイテムがドロップしたとき、何て言ってた?」 「…………」  数秒間絶句し、さらに数秒黙考してから、俺は首を振った。 「……そうだなぁ。もともと俺は、そういうトラブルが嫌でソロやってるとこもあるしな……SAO以前にやってたMMOじゃ、レアアイテムの隠匿とか、売却益の誤魔化しとかでギルドがぎすぎすしたり、崩壊まで行った経験も結構あるから……」  MMOゲーマーのモチベーションは、突き詰めていけば、優越感の獲得にその大部分が求められることは否定できない。そして優越のもっとも解りやすい指標こそが『強さ』だ。鍛え上げたステータス、そして強力なレア装備の力でモンスターを、あるいはプレイヤーを蹴散らす。その快感は、極論、ネットゲーム以外では味わうことのできないものだ。現在の俺とても、『攻略組』などと呼ばれて畏怖される快感があるからこそ、長時間のレベリングを続けられるのだ。  仮にいまギルドに所属していて、ものすごい大金に換えられるアイテムがドロップしたとして——そして、ギルドの中に、それを装備するに相応しい誰かが居たとして。  俺は「あんたが使うべきだ」と言えるだろうか? 「…………いや、言えないな」  ぽつりと呟き、俺は一度首を左右に振った。 「自分が装備したい、とも言えないけど、だからってメンバーの誰かに譲るとも言えない。だから……そうだな、俺はもし黄金林檎のメンバーだったら、やっぱり売却派に入ったと思うよ。アスナは?」  訊くと、こちらは迷いを見せずに即答した。 「ドロップした人のもの」 「へっ?」 「KoB《うち》はそういうルールにしてるの。パーティープレイでランダムドロップしたアイテムは、全部それを拾ったラッキーな人の物になる。だってSAOはコンバットログが無いから、誰に何がドロップしたとか、全部自己申告じゃない。ならもう、隠匿とかのトラブルを避けようと思ったらそうするしかないわ。それに…………」  そこで少し言葉を切り、視線を酒場の入り口に据えながらも、アスナは僅かに目元を緩めた。 「そういうシステムだからこそ、この世界での『結婚』に重みが出るのよ。それまでなら隠そうと思えば隠せたものが、結婚した途端に何も隠せなくなる。逆に言うと、一度でもレアドロップを隠匿した人は、もうギルドメンバーの誰とも結婚できない。『ストレージ共通化』って、物凄くプラグマチックなシステムだけど、同時にとってもロマンチックだと私は思うわ」  その口調に、どこか憧れるような色合いを感じた気がして、俺は思わず二、三度瞬きをした。不意にわけもなく緊張し、俺はまたしても受け答えを大誤りした。 「そ、そっか、そうだよな。じゃああれだな、もしアスナとパーティー組んで戦闘したら、ドロップねこばばしないようにするよ俺」  ガタン! という音は、アスナが椅子ごと飛び退いた音だった。  部屋の明かりを消しているので顔色までは見えなかったが、数秒間に何種類もの表情をローテーションさせたあと、『閃光』は右手を振り上げて叫んだ。 「ば……バッカじゃないの! そんな日、十年待っても来ないわよ! あ、そ、そんなっていうのはつまり、君とパーティー組む日ってことよ。ていうか、ま、マジメに入り口チェックしなさいよ! 見落としたらどうすんのよ!」  が————っと一しきり怒鳴り、アスナはぷいっと後ろを向いてしまった。会話のあいだ、一秒として酒場から視線を切らないでいたつもりだった俺は少々傷つき、「見てるよう」と情けない反論を口にしてから、ふと考えた。  ギルド黄金林檎の崩壊劇の原因となった指輪。そもそも、それが最初にドロップしたのは一体誰のストレージだったのだ?  別に大したことではない。しかし、リーダーを殺してまで奪うくらいなら、最初から隠匿したほうがずっと簡単だ。つまりドロップを申告したプレイヤーだけはリーダー殺害の犯人ではないことになる。  それもついでにシュミットに訊いておくんだったな、と俺は顔をしかめた。俺もアスナもシュミットとフレンド登録まではしていないので、ちょこっとインスタントメッセージで確認するという訳にはいかない。  とは言え、それは今更知っても仕方ない情報ではある。俺たちが追いかけているのは指輪事件ではなくて圏内殺人事件のほうなのだから。そう思いつつも、俺は諦め悪くシュミットに書いてもらったメモを取り出した。  アスナにちょっと店見ててと頼んでから、酒場の所在地に続いて列挙してあるギルド黄金林檎のメンバー名一覧を確認する。  グリセルダ。グリムロック。シュミット、ヨルコ、カインズ……金釘流のアルファベットで書きつけられた八つの名前。そのうち少なくとも三人は、すでにこの浮遊城から去っている。  これ以上犠牲者を出すわけにはいかない。グリムロックの復讐を止め、その圏内殺人のシステムを暴かねばならない。絶対に。  俺はそう心に刻みつけ、メモをストレージに格納しようとした。  しかし、小さな羊皮紙の一辺がオブジェクトから文字列へと変換される、その寸前——。  メモのある一点に、視線が吸い寄せられた。 「…………え……?」  呟き、慌てて目を近づける。ディティール・フォーカス・システムが作用し、羊皮紙上に書き付けられた文字のテクスチャがくっきりと解像度を増す。 「どういうことだ…………」  呟いた俺に、アスナが一瞬戸惑いの気配を向けてきた。 「どうしたの?」  だが、それに対して何かを答える余裕は俺にはなかった。脳をフル回転させて、今俺が見ているものの意味、その理由、そして意図を推し量ろうとする。  数秒後。 「あっ……ああ…………!!」  叫び、俺は椅子を蹴立てて立ち上がった。右手の紙片が、衝撃の大きさを映して激しく震えた。 「そうか……そうだったのか!!」  喘ぐように口走ると、アスナが戸惑いともどかしさ、苛立ちを等量ずつ含んだ声を発した。 「何よ、一体何に気付いたの!?」 「俺は……俺たちは……」  掠れた声を喉から押し出しながら、俺はぎゅっと強く両眼を瞑った。 「……何も見えていなかった。見ているつもりで、違うものを見ていたんだ。『圏内殺人』……そんなものを実現する武器も、スキルも、最初から存在しちゃいなかったんだ!!」    † 15 †  これは後から聞いた話だ。  ギルド聖竜連合ポールアーム部隊リーダーの要職につく攻略組プレイヤー・シュミットは、馴染んだギルド本部の自室に戻ってからも、ベッドに入ることはおろか、重装鎧を解除する気にもなれなかった。  部屋は城——というより城塞の、分厚い石壁の奥深くにあり、窓はひとつたりとも存在しない。そもそもギルドの本拠地はメンバー以外はシステム的に立ち入れないので、自室に居るかぎり安全だ。そう自分に言い聞かせても、どうしても視線をドアノブから外すことができない。  目を離した瞬間、あのノブが音もなく回るのではないか? そこから影のように滑り込んできたフーデッドローブの死神が、気付かないうちに背後に立っているのではないか?  周囲からは豪胆な壁戦士《タンク》と思われていたが、実際のところ、シュミットを攻略組の上位に留めているモチベーションは、『死への恐怖』以外の何物でもなかった。アインクラッドで生き残るには強くなくてはならない。そして強くなるためには大ギルドに所属しなくてはならない。その一念で、シュミットは攻略組プレイヤーとしても異例のペースでのし上がったのだ。  努力の甲斐あって、今やシュミットのHP、装備の防御力、そして鍛え上げた防御スキルの数々は、アインクラッドでも最堅固と言っていい高みに達していた。右手に巨大なランス、左手にタワーシールドを構えれば、たとえ正面から同レベルのMobが三匹来ても支え続けられるという自信があった。シュミットにしてみれば、紙にも等しい革装備に、攻撃一辺倒の武器とスキル構成のダメージディーラー——例えば数十分前まで顔を合わせていた黒づくめのソロプレイヤーのような——は、頭がおかしいとしか思えない人種だった。  なのに。  膨大なHPも。鎧のアーマー値も。ディフェンススキルも。つまりシステム的防御の全てが通用しない殺人者が今更現れるとは。しかもそいつが、明らかな意思を持って自分を狙っているだなんて。  幽霊——だなどと、本気で信じているわけではない。  いや、それすらももう確信は持てない。アンチクリミナルコードという絶対のルールを黒い霧のようにすり抜け、ちっぽけなスピアやダガー一本で軽々と命を奪っていくあの死神。あれはつまり、殺される間際の彼女の怨念がナーヴギアを通してサーバーに焼きついた、いわば電子の幽霊なのではないか?  だとすれば、堅固な城壁も、分厚い扉の錠前も、そしてギルドホームのシステム的不可侵も一切が無力だ。  来る。絶対今夜、眠りに落ちたところを狙ってあいつはやってくる。そして三本目の逆棘の武器を突き刺し、命を奪っていく。  その運命から逃れるには——もう、手段は一つしかない。  赦しを乞うのだ。跪き、額をこすり付けて謝罪し、怒りを解いてもらうのだ。自分の罪——半年前、さらなる強さ、いや硬さを求めてより上位のギルドに移るために犯した、たった一つの罪を告白し、心から懺悔すれば、たとえ相手が本物の幽霊だとしても赦してくれるはずだ。乗せられただけなのだから。口車に乗せられ、魔が差して、つい些細な犯罪行為——いや、それ以前の単なるノーマナー行為を犯してしまっただけなのだから。まさか、結果があのような悲劇に結びつくなどとは考えもせずに。  シュミットはふらりと立ち上がると、ウインドウを開き、転移結晶を一つオブジェクト化させた。力の入らない右手で握り締め、大きく一度深呼吸してから、掠れた声で呟いた。 「転移……ラーベルグ」  視界が青い光に覆われ、薄れると、そこはもう夜のただ中だった。  時刻は二十二時を回り、しかも辺鄙な既攻略層とあって、転移門広場にプレイヤーの姿はまったく無かった。周囲のNPC家屋もきっちりと鎧戸を閉め、商店の営業も終わっているので、まるで圏内ではなくフィールドに出てしまったかのような錯覚に襲われる。  半年前まで『黄金林檎』はこの村のはずれに小さなギルドホームを構えていたので見慣れた光景のはずなのだが、シュミットにはまるで村全体が自分を拒んでいるかのように思えた。  分厚い鎧の下で体をぶるぶる震わせ、崩れそうになる両脚を無理やり動かして、シュミットは村の外へと向かった。  目指したのは、主街区を出て二十分ほども歩いたところにある、小さな丘の上だった。当然ながら『圏外』であり、もはやアンチクリミナルコードは適用されない。しかしシュミットにはどうしてもここに来なければならない理由があった。あの黒衣の死神に見逃してもらうためには、もうこれしか思いつかなかった。  脚を引きずるようにして丘の天辺まで登ったシュミットは、頂上に生える捻じくれた低木の枝の下にあるものを少し遠くから見詰め、激しく体をわななかせた。  風化し、苔むした石の墓標。ギルド『黄金林檎』リーダー、今は亡き女性剣士グリセルダの墓だ。どこからともなく降り注ぐ朧な月明かりが、十字形の影を乾いた地面に刻んでいる。時折吹き抜ける夜風が、枯れ木の枝をぎぎ、ぎぎと鳴らす。  元々は、樹も墓碑もただの地形オブジェクトだった。デザイナーが何の意図もなく設置した風景的装飾だ。しかし、グリセルダが殺されてから数日後、黄金林檎が解散したその日に、残った七人のプレイヤーでここを彼女の墓にしようと決めて遺品の長剣を埋めた——正確には墓石の根元に放置し、耐久値が減少して消滅するに任せたのだ。  だから墓標に碑銘は無い。しかし、グリセルダに謝罪するためには、もうこの場所しか思いつかない。  シュミットはがくりと跪き、這いずるようにして墓石に近づいた。  砂利混じりの地面に額をこすりつけ、何度か歯をかちかちと鳴らしたあと、ありったけの意志を振り絞って口を開いた。思いのほかはっきりとした声が迸った。 「すまない……悪かった……赦してくれ、グリセルダ! オレは……オレは、まさかあんなことになるなんて思ってなかった……あんたが殺されちまうなんて、これっぽっちも予想してなかったんだ!!」 『ほんとうに……?』  声がした。奇妙なエコーのかかった、地の底から響いてくるような女の声。  すうっと意識が遠ざかりかけるのを必死に堪え、シュミットは恐る恐る視線を上向けた。  捩れた樹の陰から、音も無く黒衣の影が現れた。漆黒のフーデッドローブ。だらんと垂れた袖。闇夜の底で、フードの奥はまるで見とおせない。  しかし、そこから放射される冷たい視線をシュミットははっきりと意識した。悲鳴を迸らせそうになる口を両手で押さえ、シュミットは何度も頷いた。 「ほ……ほんとうだ。オレは何も聞かされてなかった。ただ……ただオレは、言われるがままに、ちょっとした……ほんのちょっとしたことを……」 『なにをしたの……? あなたは私に、なにをしたの、シュミット……?』  するするする、とローブの右袖から伸びる黒い細線を、シュミットは見開いた両眼で捉えた。  剣だ。しかし恐ろしく細い。使う者のほとんど居ない、『エストック』という片手用の近距離貫通武器。まさに針と言うよりない円断面の極細の刀身には、螺旋を描くように逆棘がびっしりと生えている。  ひぃぃっ、と喉の奥から細い悲鳴を漏らし、シュミットは何度も何度も額を地面に押し付けた。 「お……オレは! オレはただ……指輪の売却が決まった日、いつの間にかポケットにメモと結晶が入ってて……そこに、指示が…………」 『誰のだ、シュミット?』  今度は男の声だった。 『誰からの指示だ……?』  硬く首筋を強張らせ、シュミットは凍りついた。  鋼にでもなってしまったかのような首を軋ませながらどうにか持ち上げ、視線を上向ける。ちょうど樹の陰から、二人目の死神が姿を現すところだった。まったく同じ黒のフーデッドローブ。身長は一人目より僅かに高い。 「…………グリムロック……?」  ほとんど音にならない声でシュミットは呻いた。 「あんたも……あんたも死んでたのか…………?」  死神はその問いには答えず、替わりに無音の一歩を踏み出した。フードの下から、陰々と歪んだ声が流れる。 『誰だ……お前を動かしたのは誰なんだ……?』 「わ……わからない! 本当だ!!」  シュミットは裏返った声で喚いた。 「メモには……メモにはただ、リーダーの後を付けろと……や、宿屋にチェックインして、食事のために外に出たら、部屋に忍び込んで回廊結晶の位置セーブをして、そ、それをギルド共通ストレージに入れろとだけ書いてあって……お、オレがしたのはそれだけなんだ! オレはグリセルダに指一本触れてない! ま、まさか……指輪を盗むだけじゃなくて、こ、こ、殺しちまうなんて……オレも、オレも思ってなかったんだ!」  必死の弁解をまくし立てる間、二人の死神は身じろぎもしなかった。通り過ぎる夜風が枯れ木の梢とローブの裾を揺らした。  限界まで恐怖を募らせながらも、シュミットは脳裏に刹那の回想を瞬かせていた。  メモを見た瞬間、無茶だ、と呆れた。しかし同時に巧い手だと驚きもした。  宿屋の個室はシステム的にロックされるが、寝るとき以外はフレンド/ギルドメンバー開錠可設定にするのが普通だ。それを利用して回廊結晶のポータル位置を部屋の中に設定し、部屋の主が熟睡している時を狙って侵入する。あとはトレードを申し込み、相手の腕を勝手に動かして受諾させ、指輪を選択して交換ボタンを押す。  とてつもなくリスキーだが、しかし圏内でアイテムを奪うほとんど唯一の方法だとシュミットは直感した。メモの末尾に提示された報酬は、指輪の売却益の半額。成功すれば手に入る金額が一気に四倍になり、もし失敗——つまりトレード中にリーダーが起きてしまっても、顔を見られるのはメモの差出人ひとりだけだ。そいつが後から何を言おうと、知らぬ存ぜぬで通せばいい。宿屋に忍び込みポータルをセーブするだけなら、証拠は何も残らない。  シュミットは迷ったが、迷うことがすでにギルドとリーダーを裏切っているに等しかった。すべては一足飛びに攻略組にのし上がるため、そこでゲームクリアに貢献すれば結果としてリーダーを助けることにもなるのだと行為を正当化し、シュミットはメモに指示されていた通りのことをした。  翌日の夜、シュミットはリーダーが殺されたことを知った。さらにその翌日、約束どおりの額の金貨が詰まった革袋が自室のベッドに置かれてるのを見つけた。 「オレは……こ、怖かったんだ! もしあのメモのことを暴露したら、今度はオレが狙われると思って……だ、だから、本当にオレは知らないんだ、あれを書いたのが誰なのか! ゆ、赦してくれグリセルダ、グリムロック。オレは、ほ、本当に殺しの手伝いをする気なんかなかった。信じてくれ、頼む…………!」  甲高い悲鳴混じりの声を絞り出し、シュミットは何度も額を地面にこすり付けた。  一しきり夜風が唸り、ぎしぎしと梢が軋んだ。  それが収まると同時に、これまでの陰々としたエコーが綺麗に失せた女性の声が静かに響いた。 「全部録音したわよ、シュミット」  聞き覚えのある——つい最近聞いたばかりの声だった。シュミットはおそるおそる顔を持ち上げ、そして唖然と目を見開いた。  左手で持ち上げられた漆黒のフードの奥から現れたのは、数時間前、まさにこのローブ姿の死神に殺されたはずの当人の顔だった。波打つダークブルーの髪が、ふわりと風にたなびいた。 「…………ヨルコ…………?」  音にならない声で囁いたシュミットは、続けて隣の死神が露わにした実直そうな相貌を目にして、半ば気が遠くなりながら呟いた。 「………………カインズ」 「い、生きてるですって……!?」  驚愕の叫びを漏らすアスナに、俺はゆっくり頷きかけた。 「ああ、生きてる。ヨルコさんも、カインズ氏もな」 「だ、だって…………、だって」  何度か大きく呼吸を繰り返してから、アスナは窓枠に手をつき、かすれ声で反駁した。 「だって……私たち、ゆうべ確かに見たじゃない。槍に貫かれて、窓からぶら下がったカインズさんが、確かに死ぬところを」 「違う」  俺は大きく一度首を振った。 「俺たちが見たのは、カインズ氏の仮想体《アバター》が、ポリゴンの欠片を大量に振り撒きながら、青い光を放って消滅する現象だけだよ」 「だ、だから、それがこの世界での『死』でしょう?」 「……覚えてるか? 昨日、教会の窓から宙吊りになったカインズ氏は、空中の一点をぴったり凝視してた」  伸ばした人差し指を顔の前に掲げ、俺は言った。アスナが小さく頷く。 「HPバーを見てたんでしょう? 貫通継続ダメージで、徐々に減ってくところを……」 「俺もそう思った。でも、そうじゃない。彼が本当に見ていたのは、HPバーじゃなく、自分の着込んだフルプレートアーマーの耐久値だったんだ」 「た、耐久値ですって?」 「うん。今日の午前中に貫通ダメージが圏内でどうなるか実験をしたとき、俺は左手のグローブを外しただろ? 圏内では、プレイヤーに何をしようとHPは絶対に減らない。でもオブジェクトの耐久値は減る……さっきのバゲットサンドみたいに。もちろん装備類の耐久値は、食べ物みたいに自然減はしないけど、でもそれは損傷を受けてない場合だ。いいか、あの時、カインズのアーマーは槍に貫通されてた。槍が削っていたのは、カインズのHPじゃなく、鎧の耐久値だったんだ」  そこまで口にしたとき、眉を寄せていたアスナがハッと眼を見開いた。 「じゃ、じゃあ……あの時砕けて飛び散ったのは、カインズさんの肉体じゃなくて……」 「そう。彼の着込んでいた鎧だけなんだよ。そもそもおかしいと思ったんだ、飯を食いにきたのに、なんであんな分厚いアーマーをびっちり着込んでいたのか……あれは、ポリゴンの爆散を、可能な限り派手にするためだったんだ。そして、まさに鎧が壊れる瞬間を狙って、中身のカインズ氏は……」 「結晶でテレポートしたのね」  呟き、アスナは頭の中であの場面を再生しようとするかのように瞼を閉じた。 「その結果発生するのは、『青い光を放ってポリゴンが粉砕、飛散し、プレイヤーが消滅する現象』……つまり死亡エフェクトに限りなく近い、でもまったく別のもの」 「うん。恐らく実際にカインズ氏が取った行動は、圏外であの槍を鎧ごと体に突き刺し、回廊結晶かあるいは深夜に徒歩で教会の二階まで移動して、自分の首にロープを掛け、鎧が破壊される寸前に窓から飛び降りタイミングを合わせてテレポートした……そんな感じだろう」 「…………なるほどね……」  ゆっくりと深く頷き、アスナは瞑目したまま長く息を吐いた。 「……なら、ヨルコさんの『消滅』も同じトリックだったってことだよね。……そっか…………生きてるのね…………」  声には出さず、口の動きだけで「よかった」と呟いてから、アスナはすぐにきゅっと唇を噛んだ。 「で、でも。確かに彼女、やたらと厚着はしてたけど、スローイングダガーはいつ刺したの? 圏内じゃコードに阻まれて、体に触れることすらできないはずだわ」 「刺さってたんだ、最初から」  俺は即答した。 「よく思い出してみろよ。俺とアスナ、シュミットが部屋に入った時から、彼女一度も俺たちに背中を見せようとしなかった。これから訪ねてくってメッセージが届くや否や、圏外まで走って背中にダガーを刺して、マントかローブを装備して宿屋まで戻ったんだ。あの髪型だし、ソファーにぴったり座られたら、あんなちっぽけなダガーの柄は全部隠れるよ。そして服の耐久度が減ってくのを確認しながら会話を続け、タイミングを見計らって後ろ向きに窓まで歩いて、足で壁を蹴るかなんかして音を出してから後ろを向く。俺たちには、窓の向こうから飛んできたダガーがその瞬間刺さったようにしか見えない」 「そして自分から窓の外に落下した……あれは、転移コマンドをわたし達に聞かれないためだったのね。…………てことは、キリト君が追っかけた黒ローブは……」 「十中八九、グリムロックじゃない。カインズだ」    † 16 †  俺がそう断定すると、アスナは視線を宙に向け、短く嘆息した。 「あれは犯人どころか、被害者だったわけね。……え、でも、待ってよ」  眉根を寄せ、身を乗り出す。 「わたし達、ゆうべわざわざ黒鉄宮まで『生命の碑』を確認しに行ったじゃない。カインズさんの名前には、確かに横線が刻まれてた。死亡時刻もぴったり、死因だってちゃんと『貫通属性攻撃』だったわ」 「そのカインズさんの名前の表記、憶えてる?」 「えっと……確か、K、a、i、n、s、だったかな」 「うん、俺たちはヨルコさんからそう教わって、頭から信じた。でも……ほら、これ」  俺は、この一連の推理に辿り着く切っ掛けとなった羊皮紙片をアスナに差し出した。数時間前、シュミットに書いてもらった『黄金林檎』メンバーの一覧表だ。  手を伸ばし、受け取ったアスナは、紙片の中ほどを一瞥するや「えーっ」と叫んだ。 「『Caynz』……!? これがカインズさんの本当の綴りなの!?」 「一文字くらいならともかく、三文字も違えばシュミットの記憶違いってこともなさそうだしな。つまりヨルコさんが、俺たちにわざと違うスペリングを教えたんだ。Kのほうのカインズ氏の死亡表記を、Cのカインズ氏と誤認させるためにね」 「え……じゃ、じゃあ……」  アスナは顔を強張らせ、声のトーンを低めた。 「あの時……私たちが教会前の広場でCのカインズさんの偽装死亡を目撃した瞬間、同時にアインクラッドのどこかでKのカインズさんも貫通ダメージで死んでたってことなの? 偶然……ってことはないわよね……? まさか…………」 「ちがうちがう」  俺は軽く笑いながら、大きく右手を振った。 「ヨルコさんたちの共犯者が、タイミングを合わせてKのほうを殺した、ってことじゃない。いいかい、生命の碑の死亡表記はこうなってた。『サクラの月二十二日、十八時二十七分』……アインクラッドに、サクラの月つまり四月の二十二日が来るのは、昨日で二回目なんだよ」 「あっ…………」  アスナはしばし絶句し、次いで同じように力の無い笑みを浮かべた。 「…………なんてことなの。わたし、まったく考えもしなかったわ。去年なのね。去年の同じ日同じ時間に、Kのほうのカインズさんは、この件とはまったく無関係にもう亡くなってたのね……」 「そう、おそらくは、そこが計画の出発点だったんだ」  俺は一度大きく深呼吸をし、考えをまとめながら話を続けた。 「……ヨルコさんとカインズ氏は、かなり早い段階から、偶然同じ読みのできる見知らぬ誰かが去年の四月に死亡していることに気付いていたんだ。最初は話の種程度のことだったんだろう。でもある時どちらかが、この偶然を使えばカインズ氏の死亡を偽装できるのではないかと思いついた。しかも尋常の対モンスター戦闘死じゃない……『圏内殺人』という恐るべき演出を付け加えて」 「…………確かに、わたしも君もころっと騙されたもんね。同じ読みのできる他人の死亡表記、貫通継続ダメージによる圏内での装備破壊、それと同時の結晶転移……この三つを重ねて、圏内でのPKを限りなく真実に見せかけたんだわ…………そして、その目的は…………」  アスナは囁くような声で続きを口にした。 「『指輪事件』の犯人を追い詰め、炙り出すこと。自分達が犯人と疑われ得る立場であることを逆に利用して、ヨルコさんとカインズさんは自らの殺人事件を演出することで、存在しない『復讐者』を作り出した。圏内でPKをしてのける恐ろしい死神を……結果、恐怖に駆られて動いたのが……」 「シュミットだ」  俺は頷き、指先で顎を擦った。 「多分、最初からある程度疑ってたんだろうな。……シュミットは、こう言っちゃなんだけど中堅ギルドだった『黄金林檎』から、一足飛びにDDAに加入した。それはやっぱり異例なことではあるよ。よっぽど急激なレベルアップか、あるいは急激な装備更新がないと……」 「とくにDDAは加入要件厳しいもんね。…………でも、じゃあ、彼が指輪事件の犯人だった、ってこと……? あの人がグリセルダさんを殺して、指輪を奪ったの……?」  攻略組の作戦参謀としてシュミットとは何度も顔を合わせているアスナは、僅かに頬を強張らせ、じっと俺を見た。  しばし唇を噛み、俺はやがてそっと首を左右に振った。 「……判らない。疑いうる材料はあるけど……あいつに、『レッド』の気配があるかどうかと言うと……」  SAOにおける殺人者、つまりレッドプレイヤーは、どこか逸脱した雰囲気をまとっているものだ。それはある意味当然と言える。なぜならここでプレイヤーを殺すことは、ゲームクリアを阻害するに等しい行為なわけで、つまりレッドの連中は極論、「ここから出られなくてもいい」と思っている——あるいは積極的に「このデスゲームが永続すればいい」と願っているということになるからだ。  その負の願望は、否応無く言動の節々に現れる。だが、黒衣の死神に心の底から怯え、俺たちにギルド本部までの護衛すら頼んだシュミットからは、『レッド』の狂気を俺は感じ取れなかった。 「…………確信は持てないな。無関係じゃない、ってことくらいは充分言えるだろうけど……」  俺の呟きに、アスナも同感だというようにこくりと頷いた。窓際から近づいてきて、俺の座る椅子の肘掛にちょこんと腰を乗せる。  俯き、胸の前で腕を組んで、アスナは沈んだ声を出した。 「…………シュミットさんは、どうするつもりかな。復讐者の存在を信じきったとして、しかも圏内、ううんギルドの本部ですら安全じゃないとまで追い詰められたとしたら……」 「もし共犯者が居れば、そいつとコンタクトするだろうな。おそらくヨルコさんとカインズ氏の狙いはそれだろう。シュミットにも共犯者の今の居所が判らなければ、うーん……俺なら…………」  どうするだろう。一時の欲望や怒りの衝動に負け、プレイヤーを殺害し、それを後悔したとき、いったい何ができるだろう。  俺はまだ、この世界でプレイヤーの命を奪ったことはない。しかし、俺のせいで死んでいった仲間ならいる。俺の愚かさと醜い自己顕示欲ゆえに、俺ひとりを残して全滅したギルドの仲間たちのことを俺はいまも常に悔やんでいる。ギルドが仮のホームとしていた宿屋の裏庭に生える小さな樹を彼らの墓標と定め、何の贖罪にもなりはしないが、毎月の命日には花や酒を手向けに行く。だから、恐らくシュミットも——。 「…………もしグリセルダさんのお墓があれば、そこに行って赦しを乞うよ」  するとアスナは、俺の声の変調を敏感に察したか、肘掛の上からまっすぐこちらを見て穏やかに微笑んだ。 「そうね。わたしもそうする。KoBの本部にも、いままでのボス戦で亡くなった人のお墓があるからね……」  そこでふと口を噤み、やや表情を翳らせる。 「……? どうした?」 「ううん……ただ、ちょっと思ったの。もしその、グリセルダさんのお墓が圏外にあったら? シュミットさんがそこに謝りに行ったとして……ヨルコさんとカインズさんは、ただ許すかしら? まさかとは思うけど、今度こそ本当に復讐しようとはしないかしら……?」  予想外の言葉に、俺は一瞬背筋を強張らせた。  絶対に無いとは言えない。こんな手の込んだ『圏内殺人事件』を演出するほどに、ヨルコとカインズは指輪事件の犯人を憎んでいるのだ。彼らは少なくとも二つは転移結晶を使っている。二人のレベルからすれば大変な出費だろう。そこまでの準備をして、謝罪を引き出すだけという結果に満足するだろうか……? 「あ……、いや……そうか……」  しかし俺はふとあることに気付き、首を振った。 「いや、無いよ。二人はシュミットを殺しはしない」 「なんで言い切れるの?」 「だって、アスナはまだヨルコさんとフレンド登録したままだろう? 向こうから登録解除されたって表示は見てないよな?」 「あ……、そう言えば、そうね。宿屋での第二の殺人を信じきってたから、そのまま自動解除されたものと思ってたけど、生きてるなら登録も継続してるはずだわ」  ひとつ頷き、アスナは左手を振ってウインドウを出すと、素早く操作してもう一度首肯した。 「確かに登録されたままよ。もっと早くこれを見てれば、事件のカラクリに気付けたのになぁ……でも、となると、そもそもヨルコさんはなんでフレンド登録を受け入れたのかしら? ここから計画が全部破綻することも有り得たわよね?」 「おそらく……」  俺は眼を閉じ、体を椅子の背もたれに預けた。 「……俺たちを結果として騙すことへの謝罪という意味と、もう一つ、俺たちを信じてくれたんだろうな。フレンド登録が生きてることに気付いても、そこから彼らの真の意図まで推測して、シュミットをおびき出す邪魔はしない、とね。アスナ、ヨルコさんを位置追跡してみろよ」  瞼を開けてそう言うと、アスナは頷いてさらにウインドウを叩いた。 「……いま、二十層のフィールドに居るわ。主街区からちょっと離れた、小さい丘の上……じゃあ、ここが……」 「グリセルダさんのお墓だろうな。そこに、カインズもシュミットも居るはずだ。もしシュミットがそこで死ねば、俺たちにヨルコさんたちが殺したんだと判ってしまう。だから、殺すまではしないだろう」 「じゃあ……逆は? 指輪事件に関わってたことを知られたシュミットが、口封じのために二人を殺すことは有り得ない……?」  尚も心配そうなアスナの言葉に、俺は少し考え、今度も首を横に振った。 「いや……その場合も俺たちに露見しちゃうし、そもそもあの人は犯罪者《オレンジ》タグに、いや殺人者《レッド》になって攻略組から放逐されることに耐えられないだろう。だから、互いに相手を殺す心配だけはないと思う。…………任せよう、彼らに。俺たちの、この事件での役回りはもう終わりだよ。まんまとヨルコさんたちの目論みどおりに動いちゃったけど、でも……俺は嫌な気分じゃないよ」  そう言うと、アスナもしばらく考えてから、うんと微笑んだ。  しかし、俺もアスナも、この時点でいまだ巨大な思い違いをしていたのだ。  事件はまだまだ終わってはいなかった。    † 17 †  再び、聞いた話だ。  シュミットは驚きの余り息も絶えだえになりながら、死神ローブの下から現れた二人のプレイヤーの顔を何度も交互に見返した。  グリセルダとグリムロックだとばかり思っていた死神の正体は、ヨルコとカインズだった。しかし、この二人とてすでに死んでいることに変わりはない。カインズの死亡は伝え聞いただけだが、ヨルコのそれは——つい数時間前、自分の眼で確かに見たばかりなのだ。窓の外から飛来した黒いダガーに貫かれ、街路に落下してその仮想体《アバター》を飛散させた。  やはり幽霊なのか、と一瞬ほんとうに気絶しそうになったが、顔を露わにする直前にヨルコが発した台詞が、危ういところでシュミットの意識を救った。 「ろ……ろく、おん……?」  喉から漏れた嗄れ声に答えるように、ヨルコはローブの懐から引き抜いた手をシュミットに示した。握られているのは、ライトグリーンに輝く八面柱型の結晶。録音クリスタルだ。  幽霊が、アイテムを使って会話を録音などするはずはない。  つまりヨルコの、そしてカインズの死は偽装だったのだ。手口は想像もつかないが、二人は自分の『死』を演出することで存在しない復讐者を造り上げ、真に復讐されるべき三人目を追い詰めた。そして恐怖に駆られた三人目の、罪を告白し懺悔を乞う声を記録した。すべては——遠い過去の、ひとつの殺人事件の真相を暴くための計画だった。 「…………そう……だったのか…………」  ついにことの真相に辿り着いたシュミットは、声ならぬ声で呟き、その場にぐたりと脱力した。  まんまと騙され、証拠まで抑えられたことへの怒りはなかった。ただただ、ヨルコとカインズの執念——それに、グリセルダを慕う気持ちの深さへの驚嘆だけを感じていた。 「お前ら……そこまで、リーダーのことを…………」  呟いた声に、カインズが静かに応じた。 「あんたも、だろう?」 「え……?」 「あんただって、リーダーを憎んでたわけじゃないんだろ? 指輪への執着はあっても、彼女への殺意まではなかった、それは本当なんだろう?」 「も……もちろんだ、本当だ、信じてくれ」  シュミットは顔を歪め、何度も首肯した。  戦力差で言えば、おそらくこの二人を合わせたよりも自分のほうが強いだろう。しかしここで武器を抜き、二人の口を封じるといったような選択肢はまったく浮かんでこなかった。レッドプレイヤーに墜ちればもうギルドに、ひいては攻略組にいられなくなる、という気持ち以上に、ここでヨルコとカインズを殺せば、自分はもう二度と正気ではいられなくなるという確信があった。  だからシュミットは、まだ録音クリスタルが作動中なのを承知の上で、再び告白を繰り返した。 「オレがやったのは……宿屋の、リーダーの部屋に忍び込んでポータルの出口をセーブしたことだけだ。そりゃ……受け取った金で買ったレア武器と防具のおかげで、DDAの入団基準をクリアできたのは確かだけど……」 「メモの差出人に心当たりがない、っていうのは本当なの?」  ヨルコの厳しい声に、もう一度激しく頷く。 「い、今でもまったく解らないんだ。十人のメンバーのうち、オレとあんたら、リーダーとグリムロックを除いた三人の誰かのはずだけど……その後、一度も連絡してないし……あんたらは、目星をつけてないのか?」  シュミットの問いに、ヨルコは小さく首を横に振った。 「三人全員、ギルド解散後も『黄金林檎』と同じくらいの中堅ギルドに入って、普通に生活してるわ。レア装備やプレイヤーホーム買った人は一人もいない。いきなりステップアップしたのはあなただけよ、シュミット」 「…………そうか……」  シュミットは呟き、下を向いた。  グリセルダが死んだのちに、部屋に届けられていた皮袋の中の金《コル》は、当時では想像もできないほどの大金だった。それまでは指をくわえて見ているしかなかったオークションハウスの出品リストの天辺近くに並ぶ超高性能装備を、一気に全身ぶん揃えられたほどだったのだ。  あの金を遣わずにストレージに放置しておけるとは、凄まじいと言うしかない自制心だ。いや、それ以前に——。  顔を上げ、シュミットは己の苦境も一瞬忘れて、胸中に生じた疑問を口にした。 「……で、でもよ。おかしいだろ……遣わないなら、なんでリーダーを殺してまで指輪を奪う必要があったんだ…………?」  虚を突かれたように、ヨルコとカインズがやや上体を引いた。  アインクラッドでは、稼いだ金をストレージに貯め続けておくことのメリットはほぼ存在しない。一コルの価値は、カーディナルシステムの緻密なドロップレート操作によって常に等価に保たれ、インフレもデフレも起こらないからだ。遣われないコルに意味はない。つまり—— 「てことは……あのメモの差出人は……」  必死に思考を回転させながら、シュミットはおぼろげに浮かびつつあった推測を口にしようとした。  しかし、意識を集中しすぎていたせいで、それ[#「それ」に傍点]に気付くのが遅れた。 「シュ…………!」  目の前のヨルコが掠れた声を漏らしたときには、背後から回り込んできたダガーが、すと、とプレートアーマーの喉部分の隙間に潜り込んでいた。  一瞬の驚愕から、最前線でそれなりに鍛えた対応力で立ち直り、シュミットは飛び退こうとした。たとえ喉を切り裂かれても、この世界では即死はしない。急所ゆえにダメージはやや大きいが、それでもシュミットの膨大な総HP量に比べれば微々たるものだ。  しかし。  体を反転させるより早く、両脚の感覚が切断され、シュミットはがしゃりと音を立てて地面に転がった。HPゲージを、緑色に点滅する枠が囲っている。麻痺状態だ。壁戦士《タンク》として耐毒スキルを上げているのに、その防御を貫通するとは物凄いハイレベルの毒だ。いったい誰が—— 「ワーン、ダウーン」  しゅうしゅうと擦過音の混ざる声が降ってきて、シュミットは必死に視線を上向けた。  鋭い鋲が打たれた黒革のブーツがまず見えた。同じく黒の、細身のパンツ。ぴったりと体に密着するようなスケイルメイルも黒。右手には、刀身が緑に濡れる細身のダガーを携え、左手はポケットに差し込んでいる。  そして頭は、頭陀袋のような黒いマスクに覆われていた。眼の部分だけが丸く繰り抜かれ、そこから注がれる粘つくような視線を意識するのと同時に、シュミットの視界にプレイヤーカーソルが出現した。見慣れたグリーンではなく、鮮やかなオレンジ色が眼を射た。 「あっ……!」  背後で小さく悲鳴が聞こえ、視線を振り向けると、ヨルコとカインズを一まとめにして巨大なカマで威嚇する、やや丸い体型のプレイヤーが見えた。こちらも全身黒尽くめだが、革ではなくびっしりと襤褸切れのようなものが垂れ下がるギリースーツだ。頭部までも覆うその襤褸の間から、暗い赤に光る両眼が見えた。カーソルの色は同じくオレンジ。  この二人を、シュミットは知っていた。直接見たことがあるわけではない。ギルド本部で回覧される、要注意プレイヤーリストの上位に全身のスケッチが載っていたのだ。  ある意味ではボスモンスター以上に攻略組の仇敵である、殺人《レッド》プレイヤーたち。そのなかでも最大最凶のギルドで幹部を勤める男たちだ。シュミットを麻痺させたダガー使いが『ジョニー・ブラック』。ヨルコたちを押さえるカマ使いが『赤眼のザザ』。  ということは。まさか——あいつ[#「あいつ」に傍点]までもが。  嘘だろう。やめてくれ。冗談じゃない。  というシュミットの内心の絶叫を裏切るように、じゃり、じゃり、と新たな靴音が聞こえた。  呆然と視線を振ったシュミットは、アインクラッドにおける最大の恐怖を体現するその姿を見開いた眼で捉えた。  膝上までを包む、つや消しの黒いポンチョ。目深に伏せられたフード。  だらりと垂れ下がる右手に握られるのは、まるで中華包丁のように四角く、血のように赤黒い刃を持つ大型のダガーだ。 「…………『PoH《プー》』…………」  シュミットの唇から漏れたひと言は、恐怖と絶望を映して激しくわなないていた。    † 18 †  殺人ギルド『|笑う棺桶《ラフィン・コフィン》』。  結成されたのは、SAOというデスゲームが開始されてからわずか半年後のことだ。それまでは、ソロあるいは少人数のプレイヤーを大人数で取り囲みコルやアイテムを強奪するだけだった犯罪者《オレンジ》プレイヤーの一部が、より過激な思想のもとに先鋭化した集団である。  その思想とはつまり——『デスゲームならば殺して当然』。  現代日本では許されるわけもない『合法的殺人』が、|この状況《アインクラッド》でなら可能となる。なぜならあらゆるプレイヤーの体は現実世界においては完全ダイブ中、つまり無意識状態であり、本人の意思では指一本動かせないからだ。日本国の法律が及ぶ範囲においては、HPゲージがゼロになったプレイヤーを『殺す』のは常に殺人装置たるナーヴギアと計画者たる茅場晶彦であって、ゲージを減少させたプレイヤーではない。  ならば殺そう。このゲームを愉しもう。それは全プレイヤーに与えられた権利なのだから。  ——という劇毒じみたアジテーションによって少なからぬ数のオレンジを誘惑、洗脳し、狂的なPKに走らせたのが、肉切包丁をぶら下げる黒ポンチョの男、PoHなのだ。  そのユーモラスなプレイヤーネームに反して、氷のような冷酷さのみを放射する男は、シュミットのすぐ近くまで歩み寄ってくると短く命じた。 「ひっくり返せ」  即座にジョニー・ブラックのブーツのつま先が、うつ伏せに倒れるシュミットの腹の下にこじ入れられる。ごろりと上向けにされたシュミットの顔を真上から覗き込み、黒ポンチョの男は再び声を発した。 「Woa……確かに、こいつはでっかい獲物だ。DDAの幹部様じゃないか」  張りのある艶やかな美声なのに、なぜかその声には深い異質さがまとわりついている。フードに隠れて顔は見えないが、波打つ豊かな黒髪がぱさりと一房垂れ下がり、夜風にゆらりと靡いた。  己が絶体絶命の危地にあることを認識しながらも、シュミットは思考の半分で、なぜ、どうして、と疑問詞だけを繰り返していた。  なぜこいつらが、今この場所に出現するのだ。『ラフィン・コフィン』のトップスリーと言えば、恐怖の象徴であると同時に最大級のお尋ね者であり、こんな下層のフィールドを理由もなくうろついてるはずがない。  つまりこの三人は、シュミットがここに居ることを知ったうえで襲ってきた、ということになる。  だがそれも間尺に合わない。DDAの人間には行き先を言わずに出てきたし、ヨルコとカインズが情報を流すはずもない。そもそも、彼らは二人とも『赤眼のザザ』のカマに威嚇され、血の気を失っている。偶然、こいつらの配下が近くのフィールドに居てシュミットたちを見かけ、上に連絡したのだとしても、出現があまりにも早過ぎる。  なんでこんなことに。何らかの事情があってこの三人が偶然この層に居合わせたという、万にひとつの巨大な不運なのか? それとも——この偶然こそが、死んだグリセルダの復讐なのか……?  丸太のように転がったまま、縺れた思考を彷徨わせるシュミットを見下ろして、PoHが小さく首を傾げた。 「さて……、イッツ・ショウ・タイム、と行きたいとこだが……どうやって遊んだもんかね」 「あれ、あれ行きましょうよヘッド」  即座にジョニー・ブラックがしゅうしゅうと甲高い声を出した。 「『殺し合って、生き残った奴だけ助けてやるぜ』ゲーム。まあ、この三人だと、ちょっとハンデつけなきゃっすけど」 「ンなこと言って、お前このあいだ結局残った奴も殺したろうがよ」 「あ、あーっ! 今それ言っちゃゲームにならないっすよヘッドぉ!」  緊張感のない、しかしおぞましいやり取りに、ザザが鎌を掲げたままヒャッヒャッと笑った。  ここにきて、ようやく現実的な恐怖と絶望が背筋を這い登ってきて、シュミットは思わず目を瞑った。  生き残るためにひたすら強化したステータスも装備も、この連中の前には無意味だ。こいつらはもうすぐ食前酒めいた戯言を打ち切り、それぞれの武器を振りかざすだろう。ことにPoHの持つ大型ダガー『友切包丁《メイトチョッパー》』は、現時点での最高レベルの鍛冶職人が作成できる最高級の武器を上回る性能を持つモンスタードロップ、いわゆる『魔剣』だ。シュミットが着込む分厚いプレートアーマーの防御をも容易く抜いてくるはずだ。  ——グリセルダ。グリムロック。  これがあんた達の復讐だというなら、オレがここで死ぬのは仕方ないのかもしれない。しかしなぜヨルコやカインズを巻き添えにするんだ。あんた達を殺した真犯人を暴くために、とてつもない労力をつぎ込んできた彼らまで。なぜ——。  シュミットが、絶望に彩られた思考を泡のように弾けさせた、その時。  背中に密着する地面から、かすかな震動が伝わってくるのを感じた。  どどどっ、どどどっ、というリズミカルな震えは、どんどん大きく、確かなものになる。すぐに耳にも重い響きが届いてくる。  しゅっ、と鋭い呼吸音でPoHが部下二人に警告した。ジョニーがダガーを構えながら飛び退り、ザザが鎌をいっそう深くヨルコとカインズの首元につきつける。  動かない首を懸命に巡らせたシュミットの目が捉えたのは、主街区の方向から、一直線に近づいてくる白い燐光だった。  激しく上下する四つの光が、闇夜に溶けるような漆黒の馬のひづめを包む冷たい炎であると見て取れたのは数秒後だった。馬の背には、これも黒一色の騎手の姿がある。まるで冥府から出現した不死《アンデッド》の騎士とも思える何者かは、荒野に白い炎の軌跡を引きながら猛烈な速度で肉迫してくる。ひづめの音は耳をつんざくような地響きへと変わり、それに甲高いいななきが重なる。  たちまち小高い丘のふもとに達した騎馬は、数度の跳躍でてっぺんまで上り詰めると、後ろ脚だけで立ち上がり、鼻面から白く燃える噴気を激しく漏らした。その勢いに押されるようにジョニーが数歩下がり、直後、一杯に手綱を引いていた騎手が——馬の背中から真後ろへと転がり落ちた。  どすん、と尻餅をつくと同時に「いてっ!」と毒づいたその声には、聞き覚えがあった。  腰をさすりながら立ち上がった闖入者は、巨大な黒馬の手綱を握ったまま、ちらりとシュミットを、次いでヨルコとカインズを見て緊張感の無い声を出した。 「ぎりぎりセーフかな。タクシー代はDDAの経費にしてくれよな」  アインクラッドには、所持アイテムとしての騎乗動物《マウント》は存在しない。しかし一部の街や村にはNPCの経営する厩舎があり、そこで騎乗用の馬や、ストレージに収まりきれない大量の荷物を運搬するための牛などを借りることができる。だが乗りこなすためには当然それなりのテクニックが要求され、また料金も馬鹿高いために、使おうという者はそうそう居ない。  だがこの場合は、主街区から徒歩では絶対に間に合わなかっただろう。シュミットは詰めていた息をゆっくり吐き出しながら、闖入者——攻略組ソロプレイヤー、キリトの顔を見上げた。  キリトは握った手綱をぐいっと引き、馬を回頭させると、その尻をぽんと叩いた。レンタルが解除され、たちまち走り去っていく黒馬のひづめの音に、迫力にはやや欠ける声が重なった。 「よう、PoH。久しぶりだな。まだその趣味悪い格好してんのか」 「……手前ェに言われたかねえな」  答えたPoHの声は、僅かながら殺意を孕んでびんと強く響いた。  続けて、一歩踏み出したジョニー・ブラックが、こちらは明確に上ずった声で喚いた。 「ンの野郎……! 余裕かましてんじゃねぇぞ! 状況解ってんのかコラァ!」  ぶん、とダガーを振り回す配下を左手で制し、PoHは右手の包丁を指先でくるくる回した。 「こいつの言うとおりだぜ、キリトよ。格好よく登場したのはいいが、いくら手前ェでも俺たち三人を一人で相手できると思ってるのか?」  シュミットは、いまだ麻痺の解けぬ全身の中でわずかに動かせる顎をきつく噛み締めた。  状況はPoHの言うとおりだ。いかに攻略組でトップクラスの戦闘力を誇るキリトと言えども、ラフィン・コフィンのトップ3をまとめて倒せるわけがない。なぜ、せめて『閃光』を連れてこなかったのか? 「ま、無理だな」  左手を腰にあて、キリトは平然と言い返した。しかしすぐに続けて、 「でも耐毒POT飲んでるし、回復結晶ごっそり持ってきたから十分は耐えてやるよ。そんだけあれば、援軍が駆けつけるには充分だ。いくらあんたらでも、攻略組三十人を三人で相手できると思ってるのか?」  直前とまったく同じ台詞を返されたPoHが、フードの奥で軽く舌打ちするのが聞こえた。ジョニーとザザが、不安そうに視線を周囲の暗闇へと泳がせる。 「…………Suck」  やがて、短く罵り声を発したPoHが、じゃりっと右足を引いた。  左手の指を鳴らすと、配下二人がざざっと数メートル退く。鎌から解放されたヨルコとカインズがその場にふらふらと膝を突いた。  PoHは右手の包丁を持ち上げ、まっすぐキリトを指し、低く吐き捨てた。 「……『黒の剣士』。手前ェだけは、いつか必ず這わせてやる。大事なお仲間の血の海でごろごろ無様に転げさせてやるから、期待しといてくれよ」    † 19 †  三つの影が丘を下り、夜闇に溶けたあとも、俺は索敵スキルによって視界に表示されるオレンジ色のカーソルがちゃんと離脱していくのを確認し続けた。  犯罪者プレイヤーは、アンチクリミナルコードによって護られた街や村には原則として立ち入れない。境界に踏み込んだ途端、鬼のように強いNPCガーディアンが大挙して襲ってくるからだ。そして転移門を備えた各層主街区は例外なくコード圏内なので、あの三人が他の層に移動するためには、転移結晶の行き先に『圏外村』を指定するか、高価な回廊結晶を使うか、あるいは徒歩で攻略済みの迷宮区を上り下りするしかない。  おそらくは一番目だろうが、それにしても往復で六個の転移結晶を使ったとなると連中にしても馬鹿にならない出費だろう。溜飲を下げつつも、三つのカーソルが視界から消滅した途端、俺は無意識のうちに太く長い安堵のため息をついていた。  まったく、予想以上にやばい奴らが出てきたものだ。つまり、あの三人はこの時この座標にシュミットが——ギルド聖竜連合の前衛隊長、攻略組でも最大級のHPと防御力を持つ男がいることを知っていたということになる。  その情報の出所も、すぐに明らかになるはずだ。  俺は闇に沈む荒野から視線を切ると、ウインドウを出し、十数人を引き連れてこちらに急行中であるはずのクラインに【街で待機していてくれ】と手早くメッセージを送った。  次に腰のポーチから出した解毒ポーションをシュミットの右手に握らせ、大男が震える手でそれを呷るのを見届けてから、視線を少し離れた場所の二人に移す。  血の気を失って座り込む死神ローブ姿のプレイヤーたちにかけた声が、少しばかり皮肉っぽいものになってしまったのは止むを得ないというべきだろう。 「また会えて嬉しいよ、ヨルコさん。それに……はじめまして、カインズさん」  数時間前、俺の目の前でポリゴン片を飛散させながら消滅したばかりのヨルコは、上目遣いに俺を見ると、数秒後ごくかすかな苦笑を頬に浮かべた。 「ほんとうは、あとできちんとお詫びにうかがうつもりだったんです。……と言っても、信じてもらえないでしょうけれど」 「信じるかどうかは、おごってもらうメシの味によるな。言っとくけど、怪しいラーメンとか謎のお好み焼きはナシだからな」  きょとんとするヨルコの隣で、黒いローブを脱いだ朴訥そうな男——『圏内事件』最初の死者カインズが、ぐいっと一度頭を下げた。 「はじめまして——ではないですよ、キリトさん。あの瞬間、一度だけ眼が合いましたね」  落ち着いた低音で発せられた言葉に、俺はようやく思い出す。 「そういえば、そうだったかもな。あんたが死ぬ、じゃない、鎧の破壊と同時に転移する寸前だろう?」 「ええ。あの時ね、この人には偽装死のカラクリを見抜かれてしまうかもしれない、って何となく予感したんですよ」 「そりゃ買いかぶりだ。完璧騙された」  今度は俺が苦笑した。僅かに緩んだ空気を、がしゃりと鎧を鳴らして上体を起こしたシュミットの、いまだ緊張の抜けない声が再度引き締めた。 「……キリト。助けてくれた礼は言うが……なんで分かったんだ。あの三人がここを襲ってくることが」  俺は、食い入るように見上げてくる巨漢の眼を見返し、少し言葉を探した。 「分かった、ってわけじゃない。ありうると推測したんだ。相手がPoHだと最初から知ってたら、ビビって逃げたかもな」  つい混ぜっ返すような言い方になってしまうのには理由がある。  俺がこれから話すことは、この三人に——ことにヨルコとカインズに、巨大な衝撃を与えるだろう。全ての脚本を書き、演出し、主演までした二人も存在に気付いていないプロデューサーが、この事件の陰には潜んでいるのだ。俺はゆっくり息を吸い込み、出しうる限りの静かな声で語りはじめた。 「…………おかしい、って思ったのは、ほんの三十分前だ……」  事件は終わった。あとはヨルコ、カインズ、そしてシュミットに任せよう。  二十層主街区の下町にある酒場を見下ろす宿屋の二階で、俺はアスナにそう言い、椅子に深く身を沈めた。  彼らが互いに殺し合うことはないはずだ。ならば、この『圏内事件』の幕は、その原因となった『指輪事件』の当事者だけで降ろすのが一番いいんだ。そう確信して発した俺の言葉に、アスナも「そうね」と頷いた。  しばし訪れた静寂のなかで——俺はふと、胸のどこかに、ごくごく小さなトゲが引っかかっているような感覚に捉われた。  何か考えるべきことがある。その存在は分かっているのに、何を考えればいいのか分からない、そんなもどかしさ。違和感の訪れは、アスナの穏やかな声を聞いた瞬間だった。  アスナがこの部屋で、酒場の監視を続けながら口にした内容のどこかにこの感覚の根がある。そう思った俺は、無意識のうちに「なあ……」と声を掛けていた。 「……なに?」  隣の椅子でちらりと視線を上げるKoB副団長様に向かって、俺は思考の八割を違和感の分析に振り分けながら、まったく無思慮極まる質問を発した。 「アスナ。お前、結婚してたことあるの?」  答えは底冷えするような殺気の篭もった視線と、ぎゅっと握られた右拳と、中腰で前傾する攻撃予備動作だった。 「うそ、なし、いまのなしなし!!」  どつかれる前に叫び、両手と首をぶんぶん振ってから、俺は慌てて言葉を補足した。 「ちがうんだ、そうじゃなくて……お前さっき、結婚について何か言ってたろ?」 「言いました。それがどうかした?」  据わった眼で一瞥され、いっそう震え上がりながらも、必死に口を動かす。 「ええと……ぐ、具体的にはなんだっけ。ほら、ロマンチックだとかプラスチックだとか……」 「誰もそんなこと言ってないわよ!」  結局コード発動直前の勢いでがつんと俺のスネを蹴飛ばしてから、アスナは幸い俺の記憶を補正してくれた。 「ロマンチックでプラグマチックだって言ったの! プラグマチックっていうのは実際的って意味ですけどね、念のため!」 「実際的……SAOでの結婚が?」 「そうよ。だってある意味身も蓋もないでしょ、ストレージ共通化だなんて」 「ストレージ……共通化…………」  それだ。  その言葉が、俺の胸に突き刺さる小さなトゲの出所だ。  結婚したプレイヤーのアイテムストレージは完全に統合される。所持容量限界は二人のSTR値の合計にまで拡張され、大変な利便性をもたらすと同時に、レアアイテムを持ち逃げされるような結婚詐欺に見舞われる危険も生じる。  そのシステムの何に、俺はこんなに引っかかるんだ。  圧倒的なもどかしさに翻弄されながら、俺はさらに質問を発した。 「じゃ、じゃあさ……、離婚したとき、ストレージはどうなるんだ?」 「え……?」  虚を衝かれたように、アスナは眼を丸くした。軽く首を傾げ、俺を殴ろうとしていた拳をきゅっとおとがいに添える。 「ええっとね……、確か、いくつかオプションがあるのよ。自動分配とか、アイテムを一つずつ交互に選択していくとか……ほかにも幾つか、わたしもよく覚えてないけど……」 「詳しく知りたいな。どうするか……そうだ、アスナ、試しに俺と」  その先を危うく口にしなかったのは、まったくの英断あるいは僥倖と言うべきであろう。  先刻に数倍する殺気をまとい、銘刀ランベントライトの鞘に手をかけながら、『閃光』はにっこりと笑った。 「試しにあなたと、なあに?」 「…………お、俺と…………質問メール書いてみないか、ヒースクリフ宛の」  ——ほんの一分で帰ってきたメールには、離婚時のストレージの扱いについて、詳細かつ簡潔に記してあった。まったくシステムの生き字引のような男だ。  さっきアスナが言った、自動等価分配、交互選択分配。それに加えて、パーセンテージで偏らせた自動分配も可能らしい。これはつまり、慰謝料を発生させることも可能ということだろう。まったく実際的なシステムだ。  そのメールを読み上げるアスナの声を聞きながら、俺は必死に考え続けた。  それらのオプションは、当然離婚時に双方が合意の上で選択するのだろう。逆に言えば、分配オプションに合意できなければ、システム的離婚もできないわけだ。しかし、全てのケースで理性的な話し合いができるわけではあるまい。何がなんでも離婚したいが相手が同意しないような場合にはどうすればいいのだろう。この世界には、裁判所は存在しない。  その疑問に答えたのは、ヒースクリフの返信メールの末尾に記された一文だった。 「……ちなみに、無条件での離婚は、アイテム分配率を自分ゼロ、相手百に設定した場合にのみ可能となる。その例では、離婚成立・ストレージ分割時に相手方が持ちきれないアイテムは全て足元にドロップする。キリト君、くれぐれも一方的に離婚されそうになったならば宿屋の部屋などに避難しておくことをお薦めする。以上だ……ですって」  メールを読み終えたアスナが、微妙な表情でウインドウを消去した。  その顔をぼんやりと眺めながら、俺は口のなかで、今のメールの一箇所だけを何度もリピートした。  自分ゼロ、相手百。自分ゼロ……相手百……。 「あっ…………」  胸の奥に突き刺さる違和感のトゲが、ずきりと鋭く疼くのを俺は感じた。  ほんの小さなそれが、たちまち巨大化していく。もどかしさから疑念へ、そして確信を経て驚愕、さらには恐怖へと変質する。 「あ…………あああ……!!」  叫び、がたんと椅子を蹴倒して立ち上がった俺は、目の前のアスナの両肩を掴んだ。ぎょっとしたように身を引いた『閃光』が、打って変わって掠れた声を出した。 「ちょっ……な、何よ……あなたまさか、こんなとこで…………」  その台詞の意味を斟酌する余裕もなく、俺は呻き声を絞り出した。 「自分百[#「自分百」に傍点]、相手ゼロ[#「相手ゼロ」に傍点]。必ずそうなる離婚の仕方が、ひとつだけある」 「……え……? な、何を言ってるの…………?」  細い肩を強く握り締め、小さな顔をぐいっと引き寄せて、俺は囁きかけた。 「死別[#「死別」に傍点]だ。結婚相手が死んだ瞬間、ストレージは本来の容量に戻り、収納しきれないアイテムはすべて足元にドロップするはずだ。つまり……つまり…………」    † 20 †  震える喉を一度ごくりと動かしてから、その先を音にする。 「……つまり、ギルド『黄金林檎』のリーダー・グリセルダが何者かに殺されたその瞬間、彼女のストレージに入っていた指輪は、犯人ではなく……結婚相手であるグリムロックのストレージに残るか、あるいは足元でオブジェクト化されたはずなんだ」  間近にあるはしばみ色の瞳が、一度、二度とゆっくりしばたかれた。  そこに浮かぶ戸惑いの色が、不意に深い戦慄へと変化した。 「指輪は……奪われて、いなかった……?」  ほとんど無音で発せられた問いに、俺はすぐには答えられなかった。体を起こし、窓枠に背中を預けて呟く。 「いや……、そうじゃない。奪われた、と言うべきだ。グリムロックは、自分のストレージに存在する指輪を奪ったんだよ。彼は、幻の『圏内事件』の犯人じゃない。『指輪事件』の犯人だったんだ」  アスナの左手からこぼれたレイピアの鞘が、重い金属音を響かせて床に転がった。 「…………おかしい、って思ったのは、ほんの三十分前だ……。なあ、カインズさん、ヨルコさん。あんたたちは、あの二つの武器をどうやって入手したんだ?」  俺の質問に、相棒とちらりと眼を見交わしてからヨルコが答えた。 「……『圏内PKを偽装する』という私たちの計画には、継続ダメージに特化した貫通属性武器がどうしても必要でした。あちこちの武器屋さんを探し回ったんですけど、そんな特殊な仕様の武器を置いてるところは見つからなくて……。と言って、鍛冶屋さんにオーダーすれば、武器に銘が残ってしまいます。その人に訊けば、オーダーしたのが被害者である私たち自身であることがすぐに解ってしまうでしょう」 「だから、僕たちは已む無く、ギルド解散以来はじめてあの人に……リーダーの旦那さんだったグリムロックさんに連絡を取ったんです。僕たちの計画を説明して、必要な貫通武器を作ってもらうために。居場所は解らなかったけれど、フレンド登録だけは残っていたので……」  説明を引き継いだカインズの言葉に、ついにその名前が現れた。俺は耳に全神経を集中し、聞き入った。 「グリムロックさんは、最初は気が進まないようでした。返ってきたメッセージには、もう彼女を安らかに眠らせてあげたいって書いてありました。でも、僕らが一生懸命頼んだら、やっとあの二つの武器を作ってくれたんです。届いたのは、僕じゃないカインズさんの死亡日時の、ほんの三日前でした」  この台詞からも、やはりヨルコとカインズは、グリムロックを奥さんを殺された被害者だと信じていることがわかる。  俺は大きく息を吸い、二人に激しい衝撃を与えまた深く傷つけるであろう言葉を、無理やりに胸から押し出した。 「…………残念だけど、グリムロックがあんたたちの計画に反対したのは、グリセルダさんのためじゃないよ。『圏内PK』なんていう派手な事件を演出し、大勢の注目を集めれば、いずれ誰かが気付いてしまうと思ったんだ。結婚によるストレージ共通化が、離婚ではなく死別で解消されたとき……その中のアイテムがどうなるのか」 「え……?」  意味が解らない、というようにヨルコたちが首をかしげた。  無理もない、アインクラッドではいくら仲が良くとも結婚にまで至るカップルはごく稀だ。離婚する者たちはもっと少ないだろうし、その理由が片方の死亡となれば尚更だ。俺はともかくアスナですら、グリセルダさんが殺されたとき、指輪は殺人者の懐にドロップしたのだろうと信じて疑わなかったのだ。 「いいかい……グリセルダさんのストレージは、同時にグリムロックのものでもあった。たとえグリセルダさんを殺したところで、指輪は奪えないんだ。彼女が死んだ瞬間に、グリムロックのもとに言わば転送されてしまうんだから。そして、グリムロックがその指輪をつい魔が差して秘匿した、ということも有り得ない。シュミット……あんたは、コルで報酬を受け取ったんだろう?」  俺の質問に、地面にあぐらを掻いたままの大男は呆然と首を縦に振った。 「グリムロックは、シュミットが結果的にグリセルダさん殺害の片棒を担いだことを知っていた。それはつまり……」 「グリムロックが……? あいつが、あのメモの差出人だったのか……?」  俺の言葉に重ねて、ひび割れた声でシュミットが呻いた。  魂が抜け落ちたような表情は、ヨルコとカインズの顔にもあった。数秒後、ヨルコが波打つ髪を揺らしてかぶりを振り、その動作はすぐに激しさを増した。 「そんな……嘘です、そんなことが! あの二人はいつも一緒でした……グリムロックさんは、いつだってリーダーの後ろでにこにこしてて……それに、そうです、あの人が真犯人だっていうなら、なんで私たちの計画に協力してくれたんですか!? あの人が武器を作ってくれなければ、私たちは何もできませんでした。『指輪事件』が掘り返されることもなかったはずです。違いますか?」 「あんたたちは、グリムロックに計画を全部説明したんだろう?」  唐突な俺の問いに、一瞬口をつぐんでから、ヨルコは小さく頷いた。 「……なら、彼は、計画が全て成功したらどうなるのかを知っていた。つまり……罪の意識に駆られたシュミットがグリセルダさんのお墓に懺悔し、そこをヨルコさんとカインズさんが更に問い詰めるという、この最終幕まで。なら、それを利用して、今度こそ『指輪事件』を永久に闇に葬ることは可能だ。共犯者であるシュミット、解決を目指すヨルコさんとカインズさん、その三人を……まとめて消してしまえばいい」 「……そうか。だから……だから、あの三人が…………」  虚ろな表情で呟くシュミットをちらりと見て、俺は沈鬱な気分で顎を引いた。 「その通りだ。『ラフィン・コフィン』のトップスリーが突然現れたのは、グリムロックが情報を流したからだ。この場所に、DDAの幹部なんていう大物が、しかも仲間なしで来ている……とね。恐らく、グリセルダさんの殺害実行を依頼したときから、パイプがあったんだろうな……」 「…………そんな……」  くたり、と膝から崩れ落ちそうになったヨルコを、カインズが右手で支えた。しかしその顔も、月明かりの下でもはっきり解るほど蒼白になっている。  カインズの肩に掴まったまま、ヨルコが一切の艶の失せた声で囁いた。 「グリムロックさんが……私たちを殺そうと……? でも……なんで……? そもそも……なんで結婚相手を殺してまで、指輪を奪わなきゃならなかったんですか…………?」 「俺にも、動機までは推測できない。でも、『指輪事件』のときはアリバイ確保のためにギルドの拠点から出なかった彼も、今回ばかりは見届けずにはいられなかったはずだ。三人が処分され、二つの事件が今度こそ完全に葬られるのをね。だから……詳しいことは、直接聞こう」  言葉を切った俺の耳に、丘の西側斜面を上ってくる二つの足音が届いた。    † 21 †  まず目に入ったのは、夜闇の中にも鮮やかに浮き上がる白と赤の騎士服だった。言わずと知れた『閃光』アスナだ。右手に、透き通るような白銀の刃を持つ細剣を下げている。俺が知る限りアインクラッドで最も繊細かつ美麗な剣だが、同時にあらゆる防御を貫く最も獰猛な武器でもある。  その鋭い切っ先と、持ち主の剣呑な眼光に追われるように、一人の男が歩いていた。  かなりの長身だ。裾の長い、ゆったりとした前合わせの革製の服を着込み、つばの広い帽子を被っている。陰に沈む顔のなかで、時折月光を反射して光るのは眼鏡だろうか。全体の印象としては、鍛冶屋というよりも香港映画に出てくる兇手《ヒットマン》を思わせる雰囲気だ。俺の先入観のせいも無論あろうが。  カーソルの色は、二人ともグリーンだった。男の逃走を阻止するためにアスナが一時的にオレンジになってしまうことも覚悟していた俺は——その場合は当然、アライメントを回復するための七面倒くさいクエストに護衛を兼ねて付き合うつもりではあったが——そっと安堵の息をついた。しかしすぐに気を引き締め、丘を登りきって近づいてくる男を正面から見据える。  銀縁の丸眼鏡の下にあったのは、どちらかと言えば柔和な印象の顔だった。細面で、垂れ気味の目尻は優しげだ。だが、僅かにのぞくやや小さめの黒目には、俺の警戒心を強く呼び覚ます何かが確かにあった。  男は俺から三メートルほど離れた位置で立ち止まり、まずシュミットを、次にヨルコとカインズ、最後にちらりと苔むした小さな墓標を見てから言葉を発した。 「やあ……、久しぶりだね、皆」  低く落ち着いたその声に、数秒経ってからヨルコが応じた。 「グリムロック……さん。あなたは……あなたは、ほんとうに…………」  グリセルダを殺して指輪を奪ったのか。そして事件を隠蔽するために、更にこの場の三人をも消し去ろうとしたのか。  音にはならねど誰の耳にも明らかに聞こえたその問いに、男——ギルド『黄金林檎』サブリーダー、鍛冶屋グリムロックはすぐには答えなかった。  背後のアスナがレイピアを鞘に収め、俺の隣に移動するのを見送ってから、再び微笑を形作る唇を動かす。 「……誤解だ。私はただ、事の顛末を見届ける責任があろうと思ってこの場所に向かっていただけだよ。そこの怖いお姉さんの脅迫に素直に従ったのも、誤解を正したかったからだ」  ——おお、否定するのか、と俺はやや瞠目した。確かにPoHらに情報を流したという証拠はないが、しかし指輪事件のほうはシステム的に言い逃れようがないはずなのだが。 「嘘だわ!」  鋭く反駁したのはアスナだった。 「あなた、ブッシュの中で隠蔽《ハイディング》してたじゃない。私に看破《リビール》されなければ動く気もなかったはずよ!」 「仕方がないでしょう、私はしがない鍛冶屋だよ。このとおり丸腰なのに、あの恐ろしいオレンジたちの前に飛び出していけなかったからと言って責められねばならないのかな?」  穏やかに言い返し、革手袋に包まれた両手を軽く広げる。  シュミット、カインズ、そしてヨルコは無言でグリムロックの言葉を聞いていた。やはりまだ半信半疑なのだろう。かつてのサブリーダーが、凶悪なレッドプレイヤーに依頼して|自分たち《ギルドメンバー》を殺そうとしたなどとはおいそれと思えないだろうし、また信じたくもあるまい。  再度なにかを言い返そうとするアスナを左手で制し、俺はここでようやく口を開いた。 「初めまして、グリムロックさん。俺はキリトっつう……まあ、ただの部外者だけど。——たしかに、あんたがこの場所にいたことと、『ラフィン・コフィン』の襲撃を結びつける材料は今は何もない。奴らに訊いても証言してくれるわけはないしな」  実際には、今グリムロックにメニューウインドウを可視化してもらい、フレンドリストをチェックすれば、そこには『ラフコフ』の暗殺依頼窓口になっているグリーンプレイヤーが存在するはずだ。しかし残念ながら俺もその名前までは知らない。  だが、シュミットらの殺害未遂はともかく、こちらを言い逃れるすべは無い。そう確信しながら、俺は言葉を続けた。 「でも、去年の秋の、ギルド『黄金林檎』解散の原因となった『指輪事件』……これには必ずあんたが関わっている、いや主導している。なぜなら、グリセルダさんを殺したのが誰であれ、指輪は彼女とストレージを共有していたあんたの手元に絶対に残ったはずだからだ。あんたはその事実を明らかにせず、指輪を秘かに換金して、半額をシュミットに渡した。これは、犯人にしか取り得ない行動だ。ゆえに、あんたが今回の『圏内事件』に関わった動機もただ一つ……関係者の口を塞ぎ過去を闇に葬ることだ、ということになる。違うかい?」  俺が口を閉じると、濃い沈黙が荒野の丘に生まれた。いずこからかしんしんと降り注ぐ青い月光が、グリムロックの顔に強い陰影を刻み付ける。  やがてその口元が奇妙な形に歪み、僅かに温度を下げた印象のある声が流れた。 「なるほど、面白い推理だね、探偵君。…………でも、残念ながら、ひとつだけ穴がある」 「なに?」  反射的に問い返した俺をちらりと見て、グリムロックは黒手袋をはめた右手で鍔広帽子を引き下げた。 「確かに、当時私とグリセルダのストレージは共有化されていた。だから、彼女が殺されたとき、そのストレージに存在していた全アイテムは私の手元に残った……という推論は正しい。しかし」  月光を反射する丸眼鏡の奥から鋭い視線を俺に浴びせ、長身の鍛冶屋は抑揚の薄い声でその先を口にした。 「もしあの指輪がストレージに格納されていなかったとしたら? つまり、オブジェクト化され、グリセルダの指に装備されていたとしたら……?」 「あっ…………」  アスナが微かな声を漏らした。  虚を衝かれたのは俺も同様だった。確かにそのケースを、迂闊にも俺はまったく考えていなかった。  オブジェクト化されたアイテムは、それを装備するプレイヤーが他のプレイヤーに殺されたとき、無条件でその場にドロップする。だから、もしグリセルダが問題の指輪を装備していたならば、それはグリムロックのストレージには転送されずに殺人者の手に落ちたという論法は成り立つ。  形勢の逆転を自覚してか、グリムロックの口角が少しばかり持ち上がった。 「……グリセルダはスピードタイプの剣士だった。あの指輪に与えられた凄まじい敏捷力補正を、売却する前に少しだけ体感してみたかったとしても不思議はないだろう? いいかな、彼女が殺されたとき、確かに彼女との共有ストレージに格納されたアイテムは全て私の手元に残った。しかしそこに、あの指輪は存在しなかった。そういうことだ、探偵君」  俺は無意識のうちに強く奥歯を噛み締めた。なんとかグリムロックの主張を論破し得る材料を探そうとするが、指輪がグリセルダの指に装備されていたかいないかを証言できるのは、実際に彼女を手に掛けた殺人者——恐らくはラフコフのメンバーの誰かだけだ。  黙りこんだままの俺に向けて、グリムロックは帽子の鍔を軽く持ち上げてみせた。そのまま他の四人をぐるりと見渡し、慇懃に一礼する。 「では、私はこれで失礼させてもらう。グリセルダ殺害の首謀者が見つからなかったのは残念だが、シュミット君の懺悔だけでも、いっとき彼女の魂を安らげてくれるだろう」  再び帽子を深く引き下げ、するりと身を翻した鍛冶屋の背に——。  ヨルコが、静けさの中にも烈しい何かを秘めた声を短く投げかけた。 「待ってください……いえ、待ちなさい、グリムロック」  ぴたりと足を止めた男が、少しだけ顔をこちらに向ける。眼鏡の下の柔和そうな眼に、ほのかに厭わしそうな色が浮かんでいる。 「まだ何かあるのかな? 無根拠かつ感情的な糾弾なら遠慮してくれないか、私にとってもここは神聖な場所なのだから」  滑らかに、かつ傲然と言い放ったグリムロックに向かって、ヨルコはさらに一歩踏み出した。  何のつもりか、白い両手を胸の前に持ち上げてそれに一瞬視線を落とす。再び正面を向いた濃紺の瞳には、これまでの彼女には見られなかった強靭な光が浮かんでいる。 「グリムロック、あなたこう言ったわね。リーダーは問題の指輪を装備していた。だから転送されずに殺人者に奪われた。でもね……それは有り得ないのよ」 「……ほう? どんな根拠で?」  ゆるりと向き直ったグリムロックに、ヨルコはなおも苛烈な声を浴びせる。 「ドロップしたあの指輪をどうするか、ギルド全員で会議をした時のことをあなたも覚えているでしょう? 私、カインズ、それにシュミットは、ギルドの戦力にするほうがいいと言って売却に反対したわ。あの席上でカインズが、本心では自分が装備したかったのに、まずリーダーを立ててこう言った。——『黄金林檎』で一番強い剣士はリーダーだ。だからリーダーが装備すればいい」  ヨルコの隣で、カインズの顔にややばつの悪そうな表情が浮かぶ。しかしヨルコは意に介せず、身振りを交えて語り続ける。 「それに対して、リーダーなんて答えたか、私はいまでも一字一句思い出せるわ。あの人は、笑いながらこう言ったのよ。——SAOでは、指輪アイテムは片手に一つずつしか装備できない。右手のギルドリーダーの印章《シギル》、そして……左手の結婚指輪は外せないから、私には使えない。いい? あの人が、その二つのどっちかを解除して、レア指輪のボーナスをこっそり試してみるなんてこと、するはずないのよ!」  鋭い声が響いた途端、俺を含めた全員が小さく息を呑んだ。  確かに、メインメニューの装備フィギュアに設定されている指輪スロットは、右手と左手に一つずつだ。だが——  弱い。  俺の内心の声をトレースするかのように、グリムロックが低く呟いた。 「何を言うかと思えば。『するはずがない』? それを言うならば、まずこう言ってもらえないかな? ——グリセルダと結婚していた私が、彼女を殺すはずがない、と。君の言っていることは、根拠なき糾弾そのものだ」 「いいえ」  ヨルコが、囁くように答えた。俺は瞠目し、小柄な女性プレイヤーがゆっくり首を横に振るのを見守った。 「いいえ。違うわ。根拠はある。…………リーダーを殺した実行犯は、現場となったフィールドに、無価値と判断したアイテムをそのまま放置していった。それを発見したプレイヤーが、幸いリーダーの名前を知っていて、遺品をギルドホームに届けてくれた。だから私たちは、ここを……この墓標をリーダーのお墓にすると決めたとき、彼女の使っていた剣を根元に置いて、耐久度が減少して消滅するに任せた。でもね……でも、それだけじゃないのよ。皆には言わなかったけど……私は、もう一つだけ遺品をここに埋めたの」  言うがいなやヨルコは振り向き、すぐ傍にあった小さな墓標の裏に跪くと、素手で土を掻き始めた。その場の全員が呆然と凝視するなか、やがて立ち上がったヨルコは、右手に乗ったものをまっすぐ差し出した。それは、地面から掘り出されたにもかかわらず月光を受けて銀色に光るごく小さな箱だった。 「あっ……『永久保存トリンケット』……!」  アスナが小さく叫んだとおり、ヨルコが示したそれは、マスタークラスの細工師だけが作成できる『耐久値無限』の保存箱だった。最大サイズでもせいぜい十五センチ四方なので大型のアイテムは入れられないが、アクセサリ程度なら幾つか収納できる。これに入れたアイテムは、たとえフィールドに放置しようとも、耐久値の自然現象によって消滅することは絶対にない。  ヨルコはそっと左手を伸ばし、銀の小箱の蓋を持ち上げた。  白い絹布の上に鎮座する、二つの指輪がきらりと輝いた。  その片方——銀製、やや大型の指輪をヨルコはまず取り上げた。 「これは、リーダーがいつも右手の中指に装備してた、『黄金林檎』の印章《シギル》。同じものを私もまだ持ってるから比べればすぐ解るわ」  それを戻し、次にもう一方——黄金に煌く細身のリングをそっと取り出す。 「そしてこれは——これは、彼女がいつだって左手の薬指に嵌めてた、あなたとの結婚指輪よ、グリムロック! 内側に、しっかりとあなたの名前も刻んであるわ! ……この二つの指輪がここにあるということは——リーダーは、ポータルで圏外に引き出されて殺されたその瞬間、両手にこれらを装備していたという揺るぎない証よ! 違う!? 違うというなら、反論してみせなさいよ!!」  語尾は、涙まじりの絶叫だった。  頬に大粒の涙を零しながら、ヨルコは金色に煌く指輪をまっすぐグリムロックに突きつけた。  しばらく、口を開こうとする者はいなかった。カインズ、シュミット、そしてアスナと俺は、ただ息を詰め、眼を見開いて、対峙する二人を見守り続けた。  長身の鍛冶屋は、口元を嘲るように歪ませたまま、十秒以上も凍りついていた。やがてその唇の端が細かく震え、きつく引き結ばれ——。 「その指輪……たしか葬式の日、君は私に訊いたね、ヨルコ。グリセルダの結婚指輪を持っていたいか、と。そして私は、剣と同じように、消えるに任せてくれと答えた。あの時……欲しいと言ってさえいれば…………」  深く俯き、広い鍔に丸ごと顔を隠したグリムロックは、脱力したようにその場に膝を突いた。  ヨルコは金の指輪を箱に戻すと、蓋を閉め、それをぎゅっと胸に掻き抱いた。天を振り仰ぎ、濡れる顔をくしゃっと歪ませて、鋭さの失せた声で囁いた。 「…………なんで……なんでなの、グリムロック。なんでリーダーを……奥さんを殺してまで、指輪を奪ってお金にする必要があったの」 「…………金? 金だって?」  と、膝立ちのまま、グリムロックが掠れた声でく、く、と笑った。  左手を振り、メニューウインドウを呼び出す。短い操作でオブジェクト化されたのは、やや大きめの革袋だった。持ち上げたそれを、グリムロックは無造作に地面に放った。どすんという重い響きに、澄んだ金属音が幾つも重なった。その音だけで、俺にはその袋の中身が、恐るべき額のコル金貨であると推測できた。 「これは、あの指輪を処分した金の半分だ。金貨一枚だって減っちゃいない」 「え…………?」  戸惑ったように眉を寄せるヨルコを見上げ、次いで俺たちを順番に見渡し、グリムロックは乾いた声で言った。 「金のためではない。私は……私は、どうしても彼女を殺さねばならなかった。彼女がまだ私の妻でいるあいだに」  丸眼鏡を一瞬苔むした墓標に向け、すぐに視線を外して、鍛冶屋は独白を続けた。 「グリセルダ。グリムロック。頭の音が同じなのは偶然ではない。私と彼女は、SAO以前にプレイしたネットゲームでも常に同じ名前を使っていた。そしてシステム的に可能ならば、必ず夫婦だった。なぜなら……なぜなら、彼女は、現実世界でも私の妻だったからだ」  俺は心の底から驚愕し、小さく口を開けた。アスナが鋭く息を呑み、ヨルコたちの顔にも驚きの色が走る。 「私にとっては、一切の不満のない理想的な妻だった。夫唱婦随という言葉は彼女のためにあったとすら思えるほど、可愛らしく、従順で、ただ一度の喧嘩もしたことがなかった。だが……共にこの世界に囚われたのち……彼女は変わってしまった……」  グリムロックは帽子に隠れた顔をそっと左右に振り、低く息を吐いた。 「強要されたデスゲームに怯え、恐れ、竦んだのは私だけだった。いったい、あの彼女のどこにあんな才能が隠されていたのか……戦闘能力においても、状況判断力においても、グリセルダ……いやユウコは大きく私を上回っていた。それだけではない。彼女はやがて、私の反対を押し切ってギルドを結成し、メンバーを募り、鍛え始めた。彼女は……現実世界にいたときよりも、遥かに生きいきとし……充実した様子で…………その様子を傍で見ながら、私は認めざるを得なかった。私の愛したユウコは消えてしまったのだと。たとえゲームがクリアされ、現実世界に戻れる日がきても、大人しく従順な妻だったユウコはそこにはいないのだと。彼女は私に語ったよ。向こうに戻れたら、もう一度働きたい、いずれ起業もしてみたい、とね。私の畏れが、君たちに理解できるかな。もし向こうに戻ったとき……彼女に離婚を切り出されでもしたら……そんな屈辱に、私は耐えることができない。ならば…………ならばいっそ、まだ私が彼女の夫であるあいだに。そして合法的殺人が可能な、この世界にいるあいだに。ユウコを、永遠の思い出のなかに封じてしまいたいと願った私を……誰が責められるだろう……?」  長く、おぞましい独白が途切れても、しばらく言葉を発する者はいなかった。  俺は、不意に自分の喉から割れた呻き声が漏れるのを聞いた。 「屈辱……、屈辱だと? 奥さんが、言うことを聞かなくなったから……そんな理由で、あんたは殺したのか? SAO解放を願って自分を、そして仲間を鍛えて……いつか攻略組の一員にもなれただろう人を、あんたは……そんな理由で…………」  背中の剣に走ろうと一瞬震えた右腕を、俺は左腕で強く押さえた。  ゆるりと顔をあげ、眼鏡の下端だけを僅かにのぞかせて、グリムロックは俺に囁きかけた。 「そんな理由? 違うな、充分すぎる理由だ。君にもいつか解る、探偵君。愛情を手に入れ、それが失われようとしたときにね」 「いいえ、間違っているのはあなたよ、グリムロックさん」  反駁したのは、俺ではなくアスナだった。  冴えざえとした美貌に、俺には読み取れない表情を浮かべ、細剣士は静かに告げた。 「あなたがグリセルダさんに抱いていたのは愛情じゃない。ただの所有欲だわ。まだ愛しているというのなら、その左手の手袋を脱いでみせなさい。グリセルダさんが殺されるその時まで決して外そうとしなかった指輪を、あなたはもう捨ててしまったのでしょう」  グリムロックの肩が小さく震え、先刻の俺の映し絵のように、右手がぎゅっと左手を掴んだ。  しかし、それ以上手は動かず、鍛冶屋は押し黙ったまま革手袋を外そうとはしなかった。  再び訪れた静寂を、これまでひたすら黙り込んでいたシュミットが破った。 「……キリト。この男の処遇は、俺たちに任せてもらえないか。もちろん、私刑にかけたりはしない。しかし罪は必ず償わせる」  その落ち着いた声に、数刻前までの怯え切った響きはなかった。  がしゃりと鎧を鳴らして立ち上がった大男を見上げ、俺は小さく頷いた。 「解った。任せる」  無言で頷き返し、シュミットはグリムロックの右腕を掴んで立たせた。がくりと項垂れる鍛冶屋をしっかりと確保し、「世話になったな」と短く言い残して丘を降りていく。  その後に、再び銀の小箱を埋め戻したヨルコとカインズも続いた。俺たちの横で立ち止まり深く一礼すると、ちらりと眼を見交わして、ヨルコが口を開いた。 「アスナさん。キリトさん。本当に、何とお詫びして……何とお礼を言っていいか。お二人が居てくれなければ、私たちは殺されていたでしょうし……グリムロックの犯罪も暴くことはできませんでした」 「いや……。最後に、あの二つの指輪のことを思い出したヨルコさんのお手柄だよ。見事な最終弁論だった。現実に戻ったら、検事か弁護士になるといいよ」  すると、ヨルコはくすりと笑って肩をすくめた。 「いえ……。信じてもらえないかもしれませんけど、あの瞬間、リーダーの声が聞こえた気がしたんです。指輪のことを思い出して、って」 「……そうか……」  もう一度深々と頭を下げ、シュミットらに続いて丘を降りていく二人を、俺とアスナはその場に立ったまま見送り続けた。  やがて四つのカーソルが主街区の方向へと消え、荒野の小丘には、青い月光と穏やかな夜風だけが残された。 「…………ねえ、キリトくん」  不意にアスナがぽつりと言った。 「もし君なら……仮に誰かと結婚したあとになって、相手の人の隠れた一面に気付いたとき、君ならどう思う?」 「えっ」  予想だにしなかった質問に、俺は絶句せざるを得なかった。何せ、まだたった十五年と半年しか生きていないのだ。そんな人生の機微など理解しようもない。  しかし必死に考え続けた末、ようやく口にできたのは、少々深みには欠ける答えだった。 「ラッキーだった、って思うかな」 「え?」 「だ……だってさ、結婚するってことは、それまで見えてた面はもう好きになってるわけだろ? だから、そのあとに新しい面に気付いてそこも好きになれたら……に、二倍じゃないですか」  知的でないにも程がある言い草だが、しかしアスナは眉を寄せたあと、首を傾げ、ふんと鼻を鳴らして、少しだけ微笑んだ。 「ふうん、変なの」 「へ……変…………」 「ま、いいわ。そんなことより……色々ありすぎて、お腹すいたわよ。なんか食べにいこう」 「そ、そうだな。じゃあ……アルゲード名物、見た目はお好み焼きなのにソースの味がしないというあれを…………」 「却下」  ばっさり切られ、悄然としながら歩き出そうとした俺の肩を、突然ぎゅっとアスナが掴んだ。  びくっと飛び上がりつつ振り向いた俺の眼に——。  この『圏内事件』に関わって以来何度目かの、説明不能な光景が飛び込んできた。  アインクラッドでは、あらゆる感覚情報はコードに置換可能なデジタルデータである。ゆえに心霊現象というものは存在するはずがない。  よって、今俺が見ているものは、サーバーのバグか、あるいは脳が生み出した幻覚ということになる。  少し離れた、丘の北側。ねじくれた古樹の根元にぽつんと立つ、苔むした墓標の傍らに。  薄い金色に輝き、半ば透き通る、一人の女性プレイヤーの姿があった。  ほっそりした体を、最低限の金属鎧に包んでいる。腰にはやや細身の長剣。背中に盾。髪は短く、顔立ちはたおやかに美しいが、その瞳には俺の知る何人かのプレイヤーに共通する強い光があった。  それは即ち、己の剣でこのデスゲームを終わらせるのだという意思を秘めた、攻略者の瞳だ。  穏やかな微笑みを湛えた女性プレイヤーは、黙したまま俺とアスナを見詰めていたが、やがて何かを差し出そうとするかのように、開いた右手を俺たちに向けて伸ばした。  俺もアスナと同時に右手を差し伸べ、掌にほのかな熱を感じた瞬間、きゅっと握り締めた。唇が開かれ、密やかな声が流れた。 「ああ。あなたの意思は……俺たちが、確かに引き継ぐよ。いつか必ずこのゲームをクリアして、みんなを解放してみせる」 「ええ。約束します。だから……見守っていてください、グリセルダさん」  アスナの囁きが、夜風に乗って女性剣士まで届いた。透き通るその顔に、にっこりと大きな笑みが刻まれ——。  次の瞬間、そこにはもう誰も居なかった。  俺たちは手を下ろし、しばらくその場に立ち尽くしていた。  やがてアスナがきゅっと俺の右手を握り、微笑んで言った。 「さ、帰ろ。明日から、また頑張らなくちゃ」 「……そうだな。今週中に、今の層は突破したいな」  そして俺たちは振り向き、主街区目指して歩きはじめた。 [#地から1字上げ](ソードアートオンライン外伝5『圏内事件』 終)